旧幕府海陸軍の脱走

224 ~ 227 / 1505ページ
 しかし、江戸城開城と前将軍慶喜の水戸謹慎が現実となると、旧幕臣は大きく動揺し主戦論を唱えた人々の中には、江戸を脱して北関東から甲信越地方でゲリラ活動を行うものが続出した。彼らには、将軍に付けられた朝敵の汚名を晴らしたい、新政府は薩長の傀儡にすぎない、武士として戦わずして軍門に下ることは出来ないなどの思いが交差していたようである。
 11日夜、旧幕府陸軍の伝習第1大隊(約700人)、同第2大隊(約600人)らが屯所を脱走、国府台(千葉県市川市)で歩兵奉行大鳥圭介の下に2000人ほどが集まった。大鳥はここで「政綱紛乱乱如絲、一死報恩在此時、八万親兵多薄侠、丹心就義幾男児」(『南柯紀行』)との漢詩を残している。徳川幕府は、銃器の発達に伴って歩兵の重要性が高まったこともあって軍制の改革を進め、銃器常備の奥詰銃隊(旗本で編成)、表銃隊、撒兵隊、砲兵隊、騎兵隊(ここまでは御家人層で編成)、歩兵隊(農工商を含む)を編成していた(「感旧私史」『函館毎日新聞』大正2年8月28日~12月29日連載)。この動きを支援してくれたのはフランスで、慶応3年正月には軍事顧問団(団長シャノワーヌ)が来日、砲兵、歩兵を中心に士官および兵士が軍事教練を受けていた。伝習隊はそのために編成された隊で、大鳥がその束ねを勤めていたのである。幕府の歩兵の編成は連隊編成を建て前としており、第1、第4、第5、第6、第7、第8、第11、第12、第16連隊の存在が確認されている。この内第6連隊は当初4大隊編成された伝習隊の1大隊が改編されたものとのことである(大山柏『戊辰役戦史』)。先の国府台には、伝習隊以外に、第7連隊の一部、伊勢桑名藩士の1隊、流山(千葉県流山市)で局長の近藤勇を失った土方歳三以下の新撰組残党なども集まっており、以後彼らは大鳥を総督として、宇都宮(栃木県宇都宮市)、日光の入り口の今市(栃木県今市市)、会津若松城下などを転戦、9月に小田付村(福島県喜多方市小田付)で古屋佐久左衛門率いる衝鉾隊と合流、その後旧幕府脱走軍艦隊松島湾に入るの報を得て仙台に向かっている。
 衝鉾隊は、伝習隊脱走以前(2月7日)に脱走した第5、7、8、11、12連隊の兵士を、歩兵差図役古屋佐久左衛門が信越方面の鎮撫を目指して統率していた1隊であった。つまり幕府が洋式装備を取り入れて編成した諸隊は、大半が脱走してしまったのである。
 その外、講武所の剣客で編成した(慶応2年10月23日編成)将軍親衛隊の遊撃隊からも、脱走艦隊のもとへ集まった人々が出ている。遊撃隊は、慶喜が上野で謹慎中は護衛の任に就いていたが、将軍が水戸に向かうと、その一部が人見勝太郎、伊庭八郎らに率いられて脱走した。彼らは関東鎮守の要、箱根の関所の占拠を策したが破れ、伊豆熱海から奥州小名浜(福島県いわき市小名浜)へ走り、相馬の中村藩(福島県相馬市)にしばらく滞在した。その後彼らも脱走軍艦隊が松島湾に入ったことを知り艦隊のもとへ集まったのである。
 また、江戸を脱走せずに新政府による将軍の処遇に悲憤慷慨して上野の山に籠もった1団もある。彰義隊である。この1団は、慶喜が一橋家の当主であった時からの家臣が作った尊皇恭順有志会が母体(初会合は2月12日)で、頭取に一橋家以来の臣渋沢成一郎(のち喜作)、副頭取には旧幕臣の天野八郎が選ばれ、治安が混乱していた江戸市中取締りも任されていた。その後内紛があって渋沢は去り、彰義隊は頭(小田井内蔵太、池田大隅守)、頭並(天野八郎、菅沼三五郎、春日左衛門、川村敬三)という体制になっていた。慶喜の水戸退去後は解散を勧告されたがこれを受け入れず、逆に勢力を伸長していた。このため、新政府は急遽大村益次郎を参謀として派遣、5月15日に総攻撃を仕掛けて彰義隊を壊滅させた。その後各所に潜居していた彰義隊の生き残りは渋沢成一郎のもとに集まり、脱走軍艦隊が品川沖から仙台へ向かう時その船中にあった。なお、上野の彰義隊には、本隊(1番隊~18番隊)以外に遊撃隊(隊長村越三郎)、歩兵第1、第8連隊の一部、鳥羽伏見の戦いの際の陸軍奉行竹中丹後守重固の純忠隊、神奈川の警備隊脱走者の隊である旭隊(隊長奥山八十八郎)、越前高田榊原藩脱走の神木隊(隊長酒井良八)なども参加していた。
 一方、旧幕府艦隊は、海軍副総裁の榎本和泉守武揚の名前で、「九日に出した嘆願書に回答がなく一同の者に疑惑が広がっているところへ、旧幕府の重役からは軍艦を引渡すようにとの命令が届き、万一乗組員が不心得な行動を起こしてはとの配慮から房総付近に立退くのであって、素より咽喉の地に潜伏し、隠に動静を窺うような行為ではない」(「海軍先鋒記」『復古記』)との書き置きを残し、11日夜に品川沖から軍艦7隻(観光、蟠龍、咸臨、朝陽、富士山、回天、開陽)が館山沖へ脱走した。当時最強の艦隊であった旧幕府海軍はその実力を背景に新政府の処置に対して圧力を掛けたわけで、「素より…行為」の部分は彼らの本音であろう。慌てた新政府は、13日、武器、軍艦引渡しの請書を提出した田安慶頼へ、橋本総督名で「引渡ノ処置無之候テハ徳川ノ家名ニモ相係リ可申ノ間、此段勘考可有之事」(「太政官日誌」『維新日誌』)と軍艦の引渡し実行を命令した。しかし、榎本がその命令を頑なに拒んだため、19日、「榎本和泉主家ヲ思至情感心ノ事ニ候間、願意相貫候様御尽力可被成下候、就テハ直様四艦ハ其儘被下候ニ付、其余四艦急速朝廷へ可差上候様」(「海軍先鋒記」『復古記』)との達書を出して妥協的決着をはかった。旧幕府艦隊は品川沖に戻り、28日、観光、朝陽、富士山の3艦に急遽加えられた翔鶴の4艦が新政府へ無事引き渡された。その後は回天が箱館の状況視察(5月4日箱館入港、回天船将甲賀源吾と開陽船将荒井郁之助が杉浦兵庫頭と会い、7日に江戸へ引き上げの組頭山村惣三郎以下を乗せて出帆)に向かったり(杉浦誠「日次記」)、蟠龍、咸臨などは遊撃隊など脱走兵の移動に手を貸したり(玉置弥五左衛門「遊撃隊起終録」)、8月19日夜に脱走するまで品川沖で睨みを利かしていた。