新政府軍箱館へ迫る

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 一方、4月10日、江差を発し木古内口間道を進んだ新政府軍(軍監和田慎之助)は、11日朝、木古内の胸壁に攻撃を仕掛けたが、脱走軍の守りが固く退いた。直後、脱走軍陣営には五稜郭から大鳥圭介が到着し、翌12日には戦闘5時間に及んだ。この後小競り合いを続けていたが、大鳥圭介は18日の夜、作戦会議のため五稜郭へ帰った。増強なった新政府軍は、20日朝、濃霧の中を脱走軍木古内守備隊へ切り込んだ。不意を衝かれた脱走軍は総崩れとなって札苅村(上磯郡木古内町)から泉沢村(上磯郡木古内町)へと敗走した。しかしこの時、知内村(上磯郡木古内町)残留の福山引揚げの1隊が応援に駆付け、さらに泉沢村へ逃れた木古内口守備兵も反撃に転じて新政府軍を挾撃したので、新政府軍は稲穂峠方面へ退去した。
 脱走軍は再び木古内に入ったが、この夜大鳥圭介が駆付け全軍に茂辺地(上磯郡上磯町)への転陣を命じた。守備隊はこれを拒んだが、遂に説得され総退却に決し、二十一日茂辺地へ転陣した。次いで22日には大鳥圭介の作戦で矢不来(上磯郡上磯町)を固めることになり、額兵隊、衝鋒隊、見国隊などが胸壁を築いて守備につき、その他の諸隊は五稜郭へ戻った。新政府軍は、22日前進を開始、木古内に入った。ここで松前口の諸隊をまとめ、翌23日泉沢村に進み駐屯した。
 また鶉山道では、4月10日、土方歳三が伝習歩兵隊、衝鋒隊などを率いて二股に到着、台場山に本陣、天狗岳に前衛を築き守衛に着いた。新政府軍(軍監駒井政五郎)は、同日江差を発し、13日午後3時頃、天狗岳へ攻撃を開始した。山上からの攻撃で天狗岳を攻落した新政府軍は台場山に迫り、激烈な銃撃戦を展開、戦闘は翌朝7時頃まで続いたが、遂に抜くことができずに新政府軍は退いた。16時間にわたる銃撃戦で脱走軍は3万5000発余の弾丸を費やしたという。この戦闘に加わっていたホルタンは、ブリュネへその状況を「一六時ノ間戦ヒ……味方ノ人、其顔ヲ見ルニ、火薬ノ粉ニテ黒クナリ恰モ悪党ニ似タリ、四月十四日六時十五分」(「苟生日記」)と報告している。
 23日夕、新政府軍は兵を増強し再度台場山に迫った。大軍を擁する新政府軍の前に脱走軍は苦戦を強いられていたが、翌24日朝、五稜郭から応援に駆付けた瀧川充太郎が2小隊を率いて突然新政府軍の陣地へ突撃を敢行した。不意の突撃に新政府軍は敗走し、自軍の敗走を単身食い止めようとした駒井政五郎は弾丸を受けて倒れた。再度新政府軍は陣営を立直し台場山に迫るが、遂に抜くことをあきらめ、25日から天狗岳に滞陣した。一昼夜以上に及んだ戦闘は、連射に次ぐ連射で熱くなった銃身を水で冷やしながらの戦いだったという(『麦叢録』)。
 前に泉沢村に駐屯していた新政府軍は、兵站線が伸び過ぎ、武器、兵糧の補給が遅れたため、数日ここに滞陣、茂辺地攻撃は29日と決定した。一方、脱走軍側は、大鳥圭介自らが茂辺地、矢不来の地の守りについた。
 29日朝、茂辺地へ攻め入った新政府陸軍は、猛烈な応射を受けて劣勢となった。しかし茂辺地沖に進んだ甲鉄、朝陽からの陸上砲撃が開始されると、脱走軍陣営は大きく動揺し、衝鋒隊の大隊長天野新太郎の戦死で総崩れとなった。続いて富川、矢不来でも新政府陸海軍の歩調を合わせた攻撃の前に脱走軍は敗走を続け、衝鋒隊のもう1人の大隊長永井蠖伸斎も戦死し、有川村(上磯郡上磯町)まで退いた。この時榎本釜次郎も駆付けたが、敗勢の立直しは図れず全軍五稜郭へ退却した。またこの日、矢不来守備隊の大敗を知った二股口の土方歳三は、挟撃を懸念、台場山の陣営を引払い五稜郭へ退去した。脱走軍の占拠地は箱館五稜郭を残すのみとなったのである。
 有川村に入った新政府軍は、有川、富川付近に滞陣、箱館攻略作戦を練りながら、青森からの海上輸送のため不足勝ちの武器、兵糧の補給を待つこととなった。