電信の設置

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 日本で最初に電信が設置されたのは東京横浜間で、明治2年の12月上旬に東京・横浜間の電線(単線)の架設を終え、12月25日、一般の送信が開始された。4か月後には単線では需要に応じきれないほどであった。この時の様子を横浜発行の新聞「もしほ草」(明治3年1月13日)は次のように伝えている。
 
テレガラフ由来……爰に日本の諸人東海道を旅行せしに、一丈五六尺ばかり地をはなれてすべて障碍を除るため、棒の上に引渡せし伝信機の線を見出せり。各々おゐては、こは如何用達ものやと驚嘆せり、扨又右を委敷解明さん、先づアメリカに於てフランクリンと呼びなせし人、最初に溌墨ながすかんだち雲のあはいより、電光のさしくるありさまによりて発明せり。其他モルスと名付し人其後に針金の設けによりて流動を遠隔せし場所に送り込む事の機械を発明せり。右に付往復は多分に出来るべし。ある仕事に巧者なる人の仕方を以て、一時間に二千言を送る事叶ふべし。

 
 その後、5年9月には東京・京都間の電信が開始され、10月には東京・長崎間(4年7月15日長崎上海・香港間の海底電線完成)の電信架設を終えたが、「技業未ダ熟セス、且長遠線路種々ノ妨碍」ということで、すぐに全通とはいかなかった(『横浜市史』第3巻上)。
 この電信設置をする省庁としては、3年8月9日に民部省の1掛として「電信機掛」が置かれたのが最初のようであるが、2年の東京横浜間の電信架設は、この掛が置かれる前なので、土木司が所管した工事のようである。その後、3年閏10月20日には工部省が置かれ、電信機に関することは鉱山や鉄道などと共に工部省所管に移った。長崎までの電信架設などは工部省(電信は工部省2等寮で長官は4等官の頭(かみ))が担当し、10年の工部省の組織改定で、電信寮は電信局と改められる。このため地方の電信局はすべて電信分局と改称された。次いで18年12月22日に逓信省が誕生、電信局は駅逓局などとともに逓信省所管となった。