北海道議会の権限として、北海道関係予算等の収支決議、国会への委員派遣等、府県会のレベルを越えた殖民議会的な権限が要求されていること。
第1議会への請願運動では、函館は江差、福山等と連合し、道南地方の運動の中核となり、さらに根室の運動にも影響を与えていること。
運動組織として、第1議会から第5議会まで、大会、評議員会等の恒常的な機関が維持され、運動が進められていること。これは、札幌、小樽の運動が国会開会毎に対応した一時的な組織形成に止まったことと著しい違いである。函館の運動組織は評議員会を中核として、大会、報告会が持たれ、評議員会メンバーにより、上京委員、起案委員、政務調査委員など、各種の委員会が設けられ、委員会固有の任務を遂行している。また町会所に請願事務所が置かれていた。これらの点より、函館の道議会開設運動は極めて組織的、機能的、且つ、恒常的に行われたといえる。
組織は、大会、評議員会、各種委員会とも協議の上、議決されており、大会での提出議題の一部修正や新提案も成され、委員の選出は選挙によるという民主性を有し、また、有志により発起人会が組織され、運動資金は有志の義捐金により賄われるという、自主性、主体性を持って運営されている。これらの自主性、主体性、民主性、機能性、組織性は、札幌、小樽の道議会開設運動においても同様にみられるところである。
函館の請願運動における組織・機関の関係者と参加者層を表3-8で示した。評議員会メンバーの50名は、運動の参加経歴から、中核メンバー、評議委員会常連出席者、評議員の3グループに分類出来ると思う。評議員である、この3グループが請願運動の主体勢力であり、さらに言えば、函館の道議会開設運動は、佐瀬精一、上嶋長久らのジャーナリスト、馬場民則、八木橋栄吉らの弁護士という都市インテリと、平出喜三郎、工藤弥兵衛、竹内与兵衛、林宇三郎らの産業ブルジョアジーを中心に推進されたものであるといえる。運動参加者は、発起人会からの招待状を受け取り、大会に参加、請願署名した人達で、約200名である。運動対象者は、発起人会より大会招待状が送付された「中等以上の実業家」である約600名、政治関心者層は、板垣一行の演説会出席者の約2000名とした。
函館を1つの拠点として明治20年代中頃に展開された全道的規模の北海道議会開設運動は、政治的主張、運動の継続という点では、明治34年に開設された北海道会に直接的にはつながらないものである。しかし、この運動の参加者から、後に衆議院議員、道会議員、区長、区会議員、商業会議所役員等が輩出しており、北海道議会開設運動は、函館、さらに北海道の政治社会、市民社会の形成に一定の影響を与えたと考えられる。
表3-8 函館の道議会開設運動の参加者構造
(注)函館の戸数、人口は、『函館市史』統計史料編による。
位置づけ | 運動参加の経歴 | 人数 | 参加者 | |
評議員会メンバー 50名 | 中核メンバー | 上京委員、議長 幹事、総代、 委員、発起人 | 7、8名 | 平出喜三郎、工藤弥兵衛、馬場民則 佐瀬清一、上嶋長久、竹内与兵衛 林宇三郎、熊田宗次郎、八木橋栄吉 |
評議委員会 常連出席者 | 発起人、委員 賛成人 会合出席 | 10数名 | 常野正義、小川幸兵衛、種田直右衛門 高橋文之助、新保八右衛門、斉藤政七 逸見小右衛門、金沢彦作、和田惟一 遠藤吉平、伊藤鋳之助、尾崎幾三郎 | |
評議員 | 発起人、賛成人 会合出席人 | 10数名 | 松岡譲、田中正右衛門、池田六右衛門 脇坂平吉、岩鼻敏、武富隆太郎、 泉藤兵衛、平田文右衛門、田中和三 網塚忠兵衛、興村忠兵衛、三田已蔵 | |
運動参加者 | 大会出席、署名 懇親会出席 | 約200名 | 請願署名者 | |
運動対象者 | 大会招待状発送 | 約600名 | 「中等以上の実業家」 | |
政治関心者層 | 板垣演説会出席者 | 約2,000名 | ||
函館区民 | 明治24年 戸数12,734 人口57,943 明治25年 戸数13,294 人口60,383 |
(注)函館の戸数、人口は、『函館市史』統計史料編による。