函館における近代水道創設の沿革の中で、直接的には関係がないのであるが、飲料水の供給への熱意を知る上で「仮水道」は重要な事項であろう。また、横浜水道創設の背景との比較を通して、函館の取り組みから自治意識が想起されるので、これらのことについてふれてみたい。
函館は第2回起業において明治16年6月23日付で、函館県令名で政府へ上請しているのに対し、横浜でも同年7月14日付で、神奈川県令により「横濱市街并ニ外国人居留地水道布設之義」を政府へ上申している。ちなみに前者の工事費が22万円余であるのに対し、後者は100万円余にものぼる。結果的には函館については不許可で、横浜については明治17年10月2日付で認可された。この時期は国の財政事情が悪く地方都市の事業に補助できるような状態ではなかった。
しかし横浜の水道創設における認可の裏舞台では、これらの事情を越えての政治判断があったことが推察される。それは明治17年7月3日付の外務卿井上馨から、太政大臣三条実美への「横濱水道工事ノ義ニ付上申」からも理解でき、この中で井上は「殊ニ一昨年条約改正予議会ノ節横浜居留人民ノ請願トシテ英国先任公使パークス氏ヨリモ右等改良ノ義ニ付提議有之」と、居留外国領事からの新式水道建設の要望が強いことを述べている。この背景には外務省にあって、条約改正に対する動きが出始めた重要な時期と符合する、という点が指摘できよう。これを受けて大蔵省の答申において「本件ニ付テハ別段外務卿ヨリ承了ノ趣モ有之、到底大ニ外交上ノ関係モ有之、最モ急施ヲ要スル事業ニ付寧ロ他ノ費用ハ之ヲ減スルモ本件ニ対シテハ支出セサルヘカラストノ意思ヨリ則上文ノ通上陳ヲヨヒ候」(「公文録内務省」『横浜水道百年の歩み』)と、外交上の関係からも急を要する事業であり、他の費用を減じても、横浜水道を認める判断をしており、その費用についても国庫支弁も止むなしという結論であった。つまり横浜の水道創設は地域の問題という以上に国策の延長上にあったことがわかるのである。
これに対し函館では、明治19年のコレラ発生を機に第3回起業をすすめている中にあって、コレラ多発地帯であった東川町と西川町において「同町の組合頭并に協議員ハ水道新設の必要を感じ、彼の其筋に於て兼て予定ある全港水道の大事業落成ハまだ年月もかかる事ゆへ到底之を待つに堪へねば、先づ去大工事ハ暫く措き同町々丈に使用する水道を急に設けたしとの見込みにて、其費用ハ多年同町々にてつみたてたる共有金にて支払ふべく、尤も此両町の共有金のみにてハ不足ゆへ地蔵町豊川町の両町とも協議し、この数町にて発企すべしと専ら右協議をつくし、已に右共有金検査員等へも相談に及びたりといふ、成否のほどハ如何のものか判然せざれども、同町の有志がこの発企あるハ実に目下必要上よりいたく感じたるものなるべし」(明治19年9月9日「函新」)と、町設仮水道について論議されるようになった。
その後仮水道は、第3回起業が明治20年4月に不許可となり、同年6月には亀田川転注工事の着工が予定されていたので、具体性をおびることになった。この仮水道の計画は亀田川から願乗寺川沿いに木樋による本管を布設し、その先からさらに木樋をもって各町に分水する前近代的なものであった。その工事は明治20年春より着工し、12月の中頃に落成している(明治20年12月15日「函新」)。この仮水道は、本線1746間、分水線の延長が2557間に達し、桝の数6、井戸数52、使用町名は東川、西川、地蔵、鶴岡、汐留、豊川、真砂、音羽、若松、高砂、大縄の11か町にまたがり、使用戸数3977戸、その人口1万7060人に及んでいた(明治20年『函館区役所統計概表』)。そしてこの町設仮水道は、明治22年に近代水道が布設されるまでの間、市街東部の各町に清潔な水を供給し、大きな利益をもたらした。
前にもふれたが、函館における水道創設への願いの強さは、第2回起業以降の水道起業蓄積金や第3回起業以降の区債発行、そしてこの仮水道にみられるように自前による姿勢からも推測できよう。しかしながら当時はこのような自治意識とも比定できる区の政策が、政府に認められる段階ではなかった。まさに第2回起業の不許可の際に当時内閣顧問であった黒田清隆が堀少書記官に言った、「暫ク時節ヲ待ツベシ」という文言に表れている時代だったのである(明治16年「堀少書記官出京書類」道文蔵)。