もともと倉庫は商人資本および金融資本が、所有し、倉敷料(保管料)を取得すると共に、その保管する商品を担保に金融の道を購じ、あるいはその保管商品そのものを、保管したままの形で売買する荷為替なる形態が、江戸時代から発達していた。北海道のような危険の多い和船航海の場合は、江戸時代、船手(オペレーター兼商人)から荷主へ身元証拠金の形で荷物相当の金額を荷主へ差入れる習慣があり、後に証拠金の性質が一変して荷為替類似の働きをするようになったと、『函館海運史』は報告している。また江戸時代の北海道では、出入貨物の倉入れは問屋の取扱で、荷主または船手の希望によっては、原価の7分以内を通例として貸金をした(前掲書)。江戸時代の問屋制度は、明治維新によって廃止、商業が自由化したが、差当たり倉庫は、旧問屋を含め、商人資本ががっちりと握っていた。また倉庫が、商業の一付帯施設である限り、きわめて当然のことである。むしろ、商人資本、金融資本から倉庫業が分化、独立するということの方が重要な出来事なのである。商業の革命の1つとして良いのではないだろうか。
ところで、この商人資本からの倉庫業の分化独立の形は、海運資本からの分離の形と違っている。海運資本の場合、倉庫は、付帯設備にすぎず、なくとも営業可能なのである。海運資本が倉庫所有を必至とする理由はない。それは特に定期航路の助成施設である。商人資本は、歴史的にも、倉庫から出発した。倉庫は、特に隔地間卸売商業資本の場合、必要欠くべからざる本来的施設である。ただし、それは、土地所有と高価な建物建設費を要する。極めて、重い負担となる固定資本である。商品の売買は、商品の回転のスピード、流動性増大が生命である。倉庫証券もそのために生れてくる。この固定資本の排除、倉庫業の独立は、商人資本にとって決定的プラスである。
いま一つ付け加えたいのは、倉庫が立地する土地の高価なことである。土地資本というべき性格のこの所有すべき土地は、臨海部の商業中心地の中に、あるいは、その近隣に存在し、しかも、堅固な建物をその上に建設するので、流動性を全く欠く、恒久的固定資本となる。その地価は、市中最も高価な部分に属する。したがって市内有数の大資本、代表的な商人のみが倉庫業を営めることになる。すなわち巨大資本、とくに商業と土地所有を伴うそれが、倉庫業者たりうるのである。倉庫所有は、近世商人のステータス・シンボルであった。
大資本の特質は、信用があるということであって、したがって倉庫業者は、同時に金融業を兼営することが多い。逆に、金融資本が倉庫業を兼営することもある。たとえば、函館では、明治28年5月から32年頃まで、三井物産会社が、倉庫業を営んでいた(『日本倉庫業史』)。三菱は付帯事業として明治13年4月、三菱為替店を開業したが、物品担保貸付のために倉庫を経営するというより一歩を進め、蔵敷業(倉敷業とも称す)と称して、保管兼倉庫賃貸業を行った。同店の営業はその後銀行業と倉庫業とに分化した。ただし蔵敷業は、原則として東京の本店だけで行い、函館・小樽・根室・酒田・横浜・四日市・伏木・野蒜・高知の店舗では、主として荷為替を扱った(前掲書)。