明治維新前から明治に入った時期の日本の道路交通は、狭い人道、橋の少ないこと、車輌の極端な制限が特徴的で、官公文書の伝送および参勤交代用の伝馬制、宿駅制をどうするかが問題であった。明治5年、ようやく政府は宿駅制の廃止に踏切り、7月20日、太政官布告で、8月末限り全国諸道の伝馬所廃止が布達された。代って相対(あいたい)人馬継立をたてまえとする各駅陸運会社が各地に起った。明治8年、内国通運会社が、各地の陸運会社にとって代り民間会社となった。また伝馬制の中核をなした官公文書伝送には、飛脚制度に代って、官営による近代郵便制度が登場する。どっちにしても、道路は人間が歩くものというのが社会通念であり、その前提で道路交通が制度化されていた。長距離車輌交通の中心をなす馬車は禁止されていた。
札幌新道は、当初より長距離馬車道であった。そしてそれが近代的道路の始まりであった。もともと、北海道には、明治まで馬車道どころか、人道さえなかった。近世の松前藩は、和人地の内部でさえ、海運を以て交通手段としていた。松前、函館、江差間の道路さえ作らなかった。まして「蝦夷地」という内陸部には手もふれなかった。基本的に内陸部を他国、「蝦夷地」、アイヌの支配地域とみなしていたせいであろう。和人地以外は他国であり、アイヌ人は、和人でなくて外国人だった。そのように考えると、松前藩の道路交通の無為無策を無能無力のせいにするのは必ずしも妥当でない。勝手に北海道内陸地に、各地の場所請負人に命じて、けもの道程度ながら人道を造成せしめ、駅逓を設けた徳川幕府(前期、後期、とくに後期)こそ、傍若無人に蝦夷地を侵略し、勝手に北海道を日本の領土に繰入れたというべきであろう。それを明治政府が引継ぎ、国内殖民地化して行ったのである。