函館馬車鉄道株式会社の設立経過

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 さて函館における馬車鉄道は、「亀函馬車鉄道株式会社」として明治28年に創設された。この会社の設立を画策したのは、当時湯川にいた商人佐藤祐知であった。尾崎角太郎編『渡道六十五年解回顧-佐藤祐知自叙』によれば、ことの発端は温泉の発見で活況を呈した湯川が、市街地からの交通が不便なことで次第に客足が遠のき、それを憂えたことによる。湯川温泉復興のために「函湯汽車鉄道を敷くこと」を決断したが、その後東京の馬車鉄道を見るに及んで、その簡便さに、「函館・湯川間馬車鉄道敷設運動」を開始した。これに対して、人力車夫をはじめとする反対派も多かったが、北海新聞の社長加藤政之助らとの協議の上、運転区間は亀田方面から着手することにして、亀函馬車鉄道株式会社として、明治二十八年に創立となったのである。なお設立当時の役員は、社長に加藤政之助、副社長に西岡逾明、相談役には松岡陸三、久保熊吉、石川藤助、浅見嘉兵衛、高倉儀兵衛、林菊次郎、沢村新徳という顔ぶれで、佐藤は総取締兼監督となった。そして明治29年5月18日、次のような内容の特許状が下付された。
 
一 亀田郡亀田村字万年橋を起点とし、函館海岸町、若松町、鶴岡町地蔵町、末広町、大町弁天町に至る二哩半(四〇二四メートル)。
二 弁天町より幸町、西浜町、仲浜町、東浜町を経て末広町永国橋に至る支線一哩(一六〇九メートル)、合計軌道延長三哩半(四六二三メートル)に軌間四尺の複線敷設。
三 末広町より恵比須町、蓬莱町、宝町を経て東川町まで、東川町より鶴岡町まで一哩三分五厘(二一七三メートル)間は軌間四尺の単線軌道敷設。
(函館市交通局『市電50年のあゆみ』)

 
 一方、湯川と函館を結ぶ鉄道については、田代坦之を中心に函湯鉄道株式会社が組織されて、こちらは延長3マイル余の線路に蒸気機関車を用いた鉄道を計画して、29年4月30日に設立が許可された。しかし、用地買収などの資金調達に難行し、なかなか順調には進まなかった(29年7月3日「北毎」)。その後社名を函館鉄道株式会社と変更し、資本金の増額もはかったが、翌年になってもめどはたたなかった。亀函馬車鉄道の方は、30年に入ると本社を東川町288番地、同289番地において、正式に設立登記が完了した。『北海道拓殖年報』から営業開始に至るまでの記事を拾うと、その年4月に客車25台をはじめ車輪、車軸、軌道とも東京に発注し、線路敷設のための技師も一時「東京馬車鉄道株式会社」などから派遣してもらっている。路線は同年11月23日に弁天町大町、末広町、恵比須町、蓬莱町を経て東川町本社に達する1線が竣工し、続いて鶴岡町地蔵町、末広町交差点に至るまでの工事に着手した。12月7日には、函館支庁による総延長3080間3尺の線路の検査を受けた。そしてついに同月12日に開業式が行われ(30年12月17日「北海」)、翌13日から営業が開始されたのである。15、16日は風雪のため、わずか7回の運転に終わったが、あとは無事に年内19日間の営業を終えた。