函館馬車鉄道株式会社『実利実益 北海道案内』より
その後亀函馬車鉄道の方は路線の拡張・複線化を進めたが、函館鉄道の方は計画が進展せず、ついに31年8月19日、両社は合併して函館馬車鉄道株式会社となった。そして佐藤祐知の念願であった湯川への路線も開業からちょうど1年後の31年12月12日ついに開通したのである。なお、開業路線については、図5-1を参照してほしい。
馬車鉄道が営業していた時期は、ちょうど、函樽鉄道が、今にも実現するかと思われた日清戦争直後の明治30年である。市街は、すでに函館山山麓が利用の限界に達し、若松町、海岸町など地頚部およびその東北部へ住宅、事業所が、あふれ出る勢いを示していた。住宅と人口が急増し、市街地が函館山麓から亀田、五稜郭、湯の川へと拡張するのは、当時の函館市の経済力から当然とされた時期である。まずは、弁天町(同年、函館船渠株式会社が設立)、十字街と、近く新設予定の函樽鉄道函館駅及び実現をめざしている青函若松桟橋(同時、日本郵船が定期船運航)を結ぶ、何人かを同時にのせる人力車以上の大量旅客交通手段が必要とされた。それと、明治20年5月、湯の川への新道ができた(今の電車道路)。湯川温泉との3点連絡である。「新道ができたとはいえ、雨の日の道の悪かったことはひどいもので、ずっと大正時代までつづいた。明治二十八年頃の本に、車賃は三十銭位なれど、雨上りなどは泥寧深きによりて、二倍位は払わねばならず……」と当時の新聞に書いてある。これなら道路に軌条を敷き、馬でその上を走らせた方がよいということになろう。これも馬車鉄道出現の理由であろう。
図5-1 明治30年代の主要路線略図(『市電50年のあゆみ』より作成)