清商の組織

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 通商条規が締結されて在留清商との自由取引が可能になったわけであるが、しばらくは前に述べたように欧米商人の名義を利用して取引にあたったのは、やはり自国領事館の保護下にないことととは無縁ではない。それでは一体函館における清商の組織はどのようなものであったろうか。
 前述したとおり清国人の来函は開港当初からあったが、いわゆる独立した商人階層としての来函は慶応年間まで下がる。明治4年についてはイギリス領事の調査で26名の存在が確認できるが、個人名が明らかになるのは明治5年の条約締結後のことである。5年3月に開拓使から外務省にあてた報告書のなかに始めて個人名が登場する。それには23名の清国人が記載されている。しかしこの史料では、各々の結社状態は不明である。清国商社名の資料上の初出は明治7年6月の籍牌規則施行時であり、それによれば成記、東順和、煥章、万順、東和の5軒が独立した営業形態と見ることができる。この5軒の構成員は不明であるが、明治9年の「諸課文移録」(道文蔵)によって各店舗とその構成者とを後の籍牌関係資料から出身地別に見ると成記号と万順号のメンバーは浙江省(大半は寧波)の出身であり、東和号は福建省出身者からなる。清商の商社は後述するように構成メンバーの交替あるいは異動などで業界再編といった動きを見せるが一貫して浙江省出身の商社が有力であった。またパートナーとして組む時もわりと同じ出身省で構成される傾向が強い。
 明治9年の商社の構成を表6-24に示した。これによれば成記号の場合は袁がハウル社の重手代と読むことができる。しかしこの場合はあくまで名義上のことであっていわゆる引き受け人であろう。また万順号、泰記号、フウシュンの場合はブラキストン・マール社中の所轄という表記からも分かるようにブラキストンを単なる名義人とすることができる。なお「欧米各国来信録」(函館地方裁判所蔵)によれば12年には顔仲之の裁判所に対する申し立て書のなかで万順号の上海本店はブラキストン商社と合併し函館支店もブラキストン商社と合併し、函館では万順号で取引があれば揚厚載が総理するが、函館ではブラキストン名義の契約しかしないから揚は総理することはない、と証言。また〓瑞軒は函館の万順号支店はブラキストンと合併営業をしていると同様の証言しているが前に述べたようにこれは商業上での便法であった。またこれらの商社は年次により構成員の異動が見られるが、これは上海の店あるいは日本国内の店舗間での動きを反映したものである。
 
 表6-24 明治9年の清国商社とその構成
商社名
氏名
役職
備考
成記号 袁錦濤
潘萩州
李長寿
施秀棠
重手代
帳面方
蔵掛
歳掛
ハウル社中
万順号揚厚載
張尊三
〓永茂
〓広潮
〓張方
〓生福
張炳熈
支配人
 同、帳面方
通弁方、帳面方
蔵番、通弁方
蔵番
蔵番
ブラキストン
マール社中所轄
泰記号江玉田
汪有章
支配人
帳面方
同上
フウシュン
(福順?)
チンサン
シイシュン
リーフォン
モウニュン
支配人
帳面方

手伝
同上

 明治9年「各国官吏文通録」、「各国官吏来翰検印録」(以上、国立史料館蔵)、「諸課文移録」(道立文書館蔵)より作成