5年1月長崎の満川成種(新三)は北海道海産物の清国貿易に関する建言を開拓使に提出した。満川は前年日清通商条約締結の一行に随行して天津に渡り、清国の事情をつぶさに視察してきていた(『支那通商必携』緒言)。満川はその趣旨として北海道の海産物が幕府時代から清国輸出品として重要な位置を占めていたが、明治期に入ると自由売買となり、個人の利益のみ追及され、国益は無視されている。そして邦商は資本がなく外国貿易商に買いたたかれているので、商権を失っているとして、会社を設立して商権を回復することを主張している。同年2月開拓使は満川の提言を入れて清国貿易実情探索のために長崎の商人友永孝太郎と鹿児島の士族丸田仲太郎を上海へ派遣した。調査者として選ばれた背景に前者は対清貿易地で後者は対琉球貿易地の出身者であるということと何らかの関連があるのだろうか。また満川にも彼らとは別に上海等への視察を命じた。これより先の4年4月に清国との条約交渉のための伊達宗城を全権大使とする清国行きの使節団に北海道の各種産物を委託して、輸出品の適否の調査を依頼しているが、その後の処置については不明である。しかしこうした動きからも開拓使が何らかの対清国貿易を意識していたことは間違いがない。
さて満川らの調査者は清国滞在中、数度にわたり調査報告を開拓使に送ってきているが、この当時上海において日本人で出店している業者は三松号(田代屋慶右衛門店)などの3店にすぎず業態も陶器、漆器、小間物などを扱うのみで貿易業者ではなかった。満川は上海をはじめ漢陽や寧波などの開港場を視察し、5月末に帰国した。なお丸田と友永はその後も上海に滞留し、諸調査にあたった。
また4月には吉田建三が函館に出店し輸出業を興すための意見書を提出したほか、同じ時期に開拓使の用達である木村万平が横浜のジャーデン・マセソン商会やウオッシュ・ホール商会などと協議した上で「清国貿易品回漕船保険及ビ金融仕法書」を提出している。これは輸出を従来の横浜等の国内経由をやめて函館から直輸出する、荷物の海上保険を付けること、荷為替を扱うこと、横浜のジャーデン・マセソン商会の上海店を利用して効率的に販売を行うことなどをあげている。8月に開拓使は木村に清国輸出産物取り調べを下問している。