資本金貸与・償還の仕組み

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 広業商会の営業の柱であった資本金貸与と償還品の具体的な仕組みはどうであったろうか。主要輸出品である昆布煎海鼠干鮑、鯣のうち資本金貸与は昆布に集中している。その理由として「函館広業商会事業概略」(道文蔵)によれば煎海鼠干鮑、鯣3品の漁業生産に関して「漁業ヲ為スニ著シキ資本ヲ用フルニ及バズ、敢テ之ガ為雇夫ヲ要スルコトナク、其業尤軽易ニシテ昆布、鯡ノ如キニ非ズ。又収獲物品ヲ販売スルニ易シクシテ収漁ノ季節ニ至レバ、函館等ヨリ商賈多ク各郡ニ至リテ買取リヲナス。故ニ漁者ハ収獲スルニ資本ヲ要スルコトナク、而シテ販路ニ苦シマズ、却テ資本ヲ借用シテ其物品束縛セラルルヲ不便トス」という事情から大量の資本を投ずる必要もなく、また函館を中心とする海産商が産地で直接買取るため資本貸与を必要としなかったのである。
 
表6-27 昆布資金貸与・償還 (単位:円)
年 次
貸 与 高
償 還 高
残 高
明治10
11
12
13
14
55,454
143,522
178,314
225,924
270,633
55,411
143,368
173,454
113,574
35,039
43
154
4,860
112,350
235,594

 残高とは償還不足を意味する.またこの高には利子は算入されていない.
 『昆布商況に関する調書』より作成.
 
 これに対して昆布生産は資本を要する漁業形態であった。大多数の昆布業者は従来は昆布塲その他を大漁業者から賃借し、これに必要な資金は函館の清商や海産商から融通を受けていたが、広業商会の資金貸与の制度は金利面でも有利であったため、こうした小規模の生産者に歓迎されるようになった。表6-27に示したようにその貸与高は年々増加していった。この増加はインフレ期にむかうなかで経営に伴う必要物品あるいは雇夫の賃金の高騰ということもあった。一例として日高地方では明治10年の雇夫1人20円、米1石6円25銭が同13年ではそれぞれ40円から45円、14円と倍増以上となっている(「収獲ノ多寡如何」前掲『饒石叢書』)。しかしそれと同時に資金が容易に入手できるようになったこともあって、昆布場の新開をするものが増加したことによるものが大きい。例えば輸出用昆布の主産地へと成長してきた根室支庁管内をみると、明治10年に367か所あった昆布場が14年には795か所と倍増したことなどをあげることができる(『根室市史』下巻)。
 さて資本貸与が昆布生産に主になされたことが明らかになったわけであるが、それでは具体的な手続きなど、どのようになされたのであろうか。「函館広業商会事業概略」によって明治12年の例をみてみよう。
 その年の昆布の価格を決めるための集会に出席するために1月に各産地から総代人が函館にでむいてきた。この集会には勧商局派遣の官吏と開拓使の担当者が調停者として立ち会い、広業商会と産地総代人との間で受け渡しの場所や時期などを定めた。価格決定の会議を持つ理由は資本貸与の償還が現金決済による償還ではなく現物で行われたからであった。例えば1000円の資本を借り入れた生産者の地域の価格が100石につき500円と定められれば、200石(それに利子相当分を含める)の昆布で現物償還するのである。価格は生産者と広業商会それぞれが希望額を提示する。12年の釧路郡の例では総代側が100石400円に対して広業商会が412円50銭と両者の間には開きがあった。その差額を巡り両者はしばし協議をして最終的には433円で決定した。こうした方法をとりいれることによって、少なくとも従来は買手側の一方的な価格操作によって決められていた状態から生産者は逃れることが可能となったのである。
 ただし年当初に決定した価格であるため実際に商品として取引される時期には上海の市況等により、価格が騰貴する場合もあった。こうした場合の措置としてその年の昆布償還品の損益勘定で1割以上の利益をあげた時は、生産者に割り戻すということを決めた。ただし実際にこの割り戻しが行われたのは広業商会の純益が最も多かった11年のみであり、この年には3万1925円が生産者に分配されている(「上海領事館報告」道文蔵)。生産者は価格が決められたあとに、それぞれ資本貸与を受けて、漁夫を雇用したり、漁場経営のための資材-昆布包装の縄、莚や漁夫に支給する米、塩などの日用品-の仕入れを行い、7月ころから昆布採取に着手し、10月ころに漁を終えるのであった。広業商会の社員は各地の産地の収獲時に産地に赴き、品質検査を行い現物を受け取って函館へと輸送した。