表6-30 広業商会損益勘定
年次(明治) | 収入 | 支出 | 損益 |
9.9-10.6 10.7-10.12 11 12 13 14 15.1-15.6 15 | 12,642 19,676 125,471 172,778 88,780 80,658 39,497 94,390 | 18,455 11,672 45,971 130,872 77,785 99,766 61,040 79,972 | △ 5,812 8,004 79,429 41,905 10,955 △19,108 △21,542 14,418 |
『昆布商況に関する調書』より
ただし15年は『函館県統計表』
創業以降の広業商会の収支(表6-30)をみても、14年以降は赤字の累積となっている。おりしも経営不振のきざしがみえてきた14年8月に広業商会は前期の営業年限の満期を迎えた。満期に先立ち5月に笠野吉次郎(笠野熊吉は12年6月に病没したので、その子吉次郎が勧商局の用達を拝命し事業を継承したが、幼少であったため各地の支配人松尾吉郎や下田喜平、武富善吉らが中心となり経営を続行させた)名で大蔵省に「広業商会御処分之義に付伺」(前掲『饒石叢書』)を提出した。それには前期5か年の営業に照らして当初の目的であった日清間の貿易拡張には一定の役割は果たしたが、官の統制下に置かれたため「事業取扱上自然私業ノ如ク商務ノ活機ヲ運用難致情況モ有之」今後は一層貿易拡張を目指し、半官半民の性格を払拭して、私企業の形態で営業を継続したいという趣旨がうたわれている。
この出願に対して、これまでの営業で得た資産一切は笠野吉次郎へ引き継ぐことは承認されたが、この当時で35万円余にものぼった産業資本貸与金の未償還分や40万円の資本金の年賦返納を命じられた。こうして私企業として改組して3県期を迎えるのであった。