昆布の過剰輸出と上海での滞貨

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 広業商会による昆布輸出は前述したとおり10年以降は逐年増加し、在留清商との競合が続いた。また取扱高の増加により、13年には船場町に倉庫を新設するなどの整備も行った。ところが、輸出量の増加が、上海市場での販路渋滞をもたらしてくるようになった。それが広業商会上海支店での在庫高の急増という形をとるようになった。同支店の在庫高をみると12年1月は3800石にすぎなかったものが、13年1月には9300石、14年1月には3万4000石、15年1月2万2000石と増加の一途をたどった(「上海領事館報告」道文蔵)。大体このころの清国市場の昆布消費量は7万石前後(1750万斤)であったものが、連年10万石前後の輸出がなされた。こういった供給過剰と、それに追い打ちをかけるような生産者の粗製乱造よって生じた上海市場での信用喪失が原因であった。このため産地に対する品質改良の指導もなされたが、監視体制の強化のみが先行し、実効をあげるまでには至らなかった。産地別の函館での売買価格も広業商会の買取が始まって順調に増加していたものが供給過剰のピークとなった15年は前年の100石あたり平均価格が725円であったものが624円と100円も低落したのであった(明治15年『商況年報』)。
 
 表6-30 広業商会損益勘定
年次(明治)
収入
支出
損益
9.9-10.6
10.7-10.12
    11
    12
    13
    14
15.1-15.6  
    15
12,642
19,676
125,471
172,778
88,780
80,658
39,497
94,390
18,455
11,672
45,971
130,872
77,785
99,766
61,040
79,972
△ 5,812
8,004
79,429
41,905
10,955
△19,108
△21,542
14,418

 『昆布商況に関する調書』より
 ただし15年は『函館県統計表』
 
 創業以降の広業商会の収支(表6-30)をみても、14年以降は赤字の累積となっている。おりしも経営不振のきざしがみえてきた14年8月に広業商会は前期の営業年限の満期を迎えた。満期に先立ち5月に笠野吉次郎(笠野熊吉は12年6月に病没したので、その子吉次郎が勧商局の用達を拝命し事業を継承したが、幼少であったため各地の支配人松尾吉郎や下田喜平、武富善吉らが中心となり経営を続行させた)名で大蔵省に「広業商会御処分之義に付伺」(前掲『饒石叢書』)を提出した。それには前期5か年の営業に照らして当初の目的であった日清間の貿易拡張には一定の役割は果たしたが、官の統制下に置かれたため「事業取扱上自然私業ノ如ク商務ノ活機ヲ運用難致情況モ有之」今後は一層貿易拡張を目指し、半官半民の性格を払拭して、私企業の形態で営業を継続したいという趣旨がうたわれている。
 この出願に対して、これまでの営業で得た資産一切は笠野吉次郎へ引き継ぐことは承認されたが、この当時で35万円余にものぼった産業資本貸与金の未償還分や40万円の資本金の年賦返納を命じられた。こうして私企業として改組して3県期を迎えるのであった。