函館商法会議所の設立問題

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 では、函館における商工業者たちの組織的結集は、どのようにしてなされたのであろうか。前掲の表6-39(明治初期の商工行政と商工会参照)によれば、函館では明治二十二年に札幌、小樽とともに勧業会組織、即ち函館商工会が設立されている。しかし、当時道内の最先進地であった函館の商工団体設立への動向を追求してみると、その最初の胎動は明治10年代初頭にまでさかぼることができるのである。
 さきにも述べたように、日本で最初の地域商工団体は、明治11年10月設立の東京商法会議所であるが、その直後の同12年から13年にかけての「函館新聞」には、こうした本州方面での商法会議所設立の動向に刺激されたのであろうか、この函館でも商法会議所を設置しようとする動きの存在したことを報じる記事が散見する。
 例えば、明治12年4月1日付の「函館新聞」には、前年の大阪商法会議所の設立に関する記事が掲載されているが(雑報欄)、翌13年になると、まず5月29日付の同紙に次のような記事が載っている。
 
本港の金融至極逼迫に付、其筋より各銀行へ下問の廉もありし由にて、百十三銀行の杉浦氏ハ不融通の原由等夫々取調べて救済の儀を其筋へ願出(いださ)れ(中略)右に付ても商法会議所の便利なるを想像(おもひや)られ、今に当たつて未だ該会議所の設置なきこそ最も遺憾なれ。

 
 そして、この後急速に商法会議所設立の気運が盛りあがったものとみえ、8月28日付の同紙は、会議所開設とその敷地決定に関して次のように報じている。
 
度々報道せし松陰町(支庁坂下)共有地の事に付て石川小十郎が鳴せし苦情も弥々治まりて、此程惣代人が集議の上望人に貸渡すことに成り、其地賃までも決りしが、地蔵町の惣代人等は賃金の当否且つ今度開設する商法会議所の地所も要用なれば、幸ひ右共有地の内若干坪を其用に充んと発議し、大町神明町の惣代は同会議所の事を至極賛成せり(中略)折角思付きの商法会議所の発議は如何(どう)なるか早くも発議通りに決つて速かに開設あらんことは記者も祈る所なり。

 
 さらに、同年函館新聞の社長となる山本忠礼が強力な商法会議所設立論者であったためか、8月30日から9月5日までの間4回に渡って「商法会議所設立ノ議」と題する論説を連載している。
 その趣旨は、「欧州文明国」における商法会議所の存在意義を論じつつ「当港函館ニ商法会議所ヲ設立シテ商人ノ特権ヲ伸暢シ、商業ノ便否ヲ議スルニ何ソ其ノ不可ナルヲ云フ者アラン」(8月30日付)と問題提起しつつ、会議所が「当今ニ至テハ各県各府ノ稍ヤ名アル都会ノ地ニ於テハ其ノ開設アラサルコトナキニ至レリ」という状況の中で、この函館は「五港ノ一、外人雑居ノ地ニシテ殊ニ北海ノ咽喉ト呼ヒ、商況ノ盛大繁劇ヲ問ヘハ東京、大阪、横浜ヲ除ク外、恐ラクハ我カ函館港ニ及フモノアラン」という要港であるから、「今ヤ商人等カ一大奮発ヲ要シテ商業ノ義務ヲ尽ス可キモノハ、一日モ速ニ商法会議所ヲ開設シテ商業ノ公益ヲ謀ル」(9月1日付)ことであると主張する。次いで会議所の機能に言及して、「其ノ所務タルヤ一箇ノ私務ニアラス、公同ノ義務ナレハ其ノ費用モ公同ニ賦スルハ当然」の事と述べ、「日本国」の各地商法会議所の実態が「地方ノ有志者カ結合ニ成リタル私立会議所ナレハ、其ノ費用モ公同ニ賦スルコト能ハス、故ニ有志者ノ積金ヲ以テ其ノ費用ニ供ス」現状を批判しながら、「我カ函館ニ於テ会議所ヲ開設セハ、開拓使ヨリ各府県同一ノ補助金ヲ下付サルルコトハ余輩深ク信スル所ナリ」(9月3日付)と述べて「只当港ノ会議所ニ於テ緊要ナルノ点ハ、該議員ノ気力ト思想ヲ奮激スルニ在ルヲ信スルナリ」(9月5日付)と、「議員タル其ノ人ヲ撰ム」ことの重要性を指摘している。
 翌明治14年7月5日には、住友家の大番頭で、大阪商法会議所の設立に関与した広瀬宰平の来函を機に、町会所で演説会が開かれ、広瀬は「商法会議所の必要なる事柄」について力説した(明治14年7月7日付「函新」)。その時の状況は、広瀬の手記「東北紀行」(『新しい道史』第32号)によれば、次のように記されている。
 
(七月)五日雲 午後五時函館町会所ニ至リ諸氏ノ請ニ依リテ商法会議所ノ経歴ト功用トヲ説キ且見ル所ノ一二ヲ談シ聊カ諸氏ノ傾聴ヲ得タリ。此日来リ会スルモノ官人商売無慮百十余名、此地ニ在テ未曽有ノ盛会ナリト云フ、其詳カナルハ載セテ函館新聞ニアリ。

 
 この集会参加者は、広瀬も指摘しているように「函館新聞」によれば、官吏34名、人民65名、その他の議員、戸長51名の計150名となっているが(7月7日付)、いづれにしても「盛会」であったことは事実であろう。
 このように明治13年前後の函館では、山本忠礼等の一部有職者を中心に、商法会議所設立の機運が著しく盛りあがっていたのである。しかしながら商法会議所の設立は、直ちには実現しなかった。