経営内容

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 函館汽船会社は株式組織と改めたときは2隻の船舶を所有していたが、その後徐々に増やしていった。まず25年に社長の田中正右衛門が自ら上海に行って北門丸を購入したのを手始めに、28年には横浜でドイツ商人から汽船を購入、これを北雄丸と名付けた。29年12月に択捉島の紗那で北海道丸が遭難したので、翌30年には都丸を購入した。しかし同社の経営戦略としては一時的に船舶不足といった現象を来しても、ただちに資本投資をして所有船舶を増加させるのではなく、道内の生産状況を踏まえてのものであった。こうした点に関して35年の地元新聞には函館汽船会社について次のように報道している。「函館汽船の利潤 函館汽船会社は……当初より諸般の規模大に失せず専ら実利的を以て成立し居れるが営業の少なる割合に利益多く毎季決算毎に二割を下ることまれなる好望の会社なるが猥りにその規模を拡大にし常に好果を収むること殆んど稀なる現今の会社々界に於てはこれ等を以て標本とすべく……」(35年1月15日「北海朝日新聞」)とあり、過度の資本投下を避けて経営圧迫を防ぐという堅実な経営方針をとっていた。
 それは経営航路のありかたにも表れている。同社の経営航路は「日夜商勢ノ枢機ヲ探究シ臨機応変以テ其便益ト認識スル処ニ回航セシメ」(『第十一回事業報告』)とあるように、一定の定期航路を持たず、随時その需要に応じて、また荷客の多少、運賃の高低を酌量して回航させたのである。一例として28年の上半期の運行状況を『事業報告』からみてみよう。この期は3隻体制であったが、1隻は修繕のために実質1か月のみの運行、もう1隻も修繕のため3か月程度の運行しかできなかった。こういった状況で北門丸が期間中フル活動した。まず東京・四日市・半田間の航海をして、函館・東京を1往復、そして北海道への出稼ぎの漁夫を輸送するために青森県下と道内の漁場へ数度航海。それから江差から大阪まで胴鰊を満載して輸送し、4月に名古屋の商人に貸船し、中国へ航海。帰国後には神戸・広島間で米麦を輸送、坂出から函館まで食塩を輸送、この往路では岩内から〆粕を搭載して、神戸、大阪に向かっている。本州間航路を終了後は函館・網走間に従事。その他の2隻は岩内・四日市間に〆粕輸送、その帰路は坂出から函館まで食塩を運ぶ。それから函館から上場所、小樽方面への回漕などであった。
 このように函館汽船会社の営業航路は非常に多様であった。2月ころに府県からの漁場への出稼ぎの漁夫を運ぶのを手始めに、5、6月ころには漁肥の本州輸送、9、10月以降には鮭鱒の本州輸送、そして漁夫の帰国の輸送といったパターンであった。道内航路に主眼が置かれてはいるが、表のとおり本州航路もあり、また特に本州と函館との航海は往復ともに積み荷を求めての回漕がなされている。30年代に入ると樺太間の輸送の比重が高くなる。こうした営業航路の広範な展開にともない各地の代理店網が拡充された。28年現在では道内が釧路、小樽など13箇所、本州は東京、大阪など11箇所となっている。また明治33年2月に臨時の株主総会を開き、従来の15万円の資本金を事業拡張のため5万円増資することにした(33年2月14日、同10月7日「樽新」)。同社の営業収支を表7-21に示したが、創業当初から黒字を計上しており、優良企業として堅実な経営方針のなかで経営展開がなされた。
 
 表7-21 函館汽船会社営業収支    単位:円
年次\区分
収入
支出
揖益
船客運賃
貨物運賃
貸船料
その他
営業費
船費
明治21
  22
  23
  24
  25
  26
  27
  28
  29
  30
  31
  32
  33



*



11,575
32,643
28,274
*




45,748



94,375
94.983
78,368
151,740




0



5,200
5,050
11,950
15,900




2,025



0
1,437
2,270
0

40,888
45,245
43,583
47,773
43,351


111,150
134,113
120,862
167,640


5,882

5,528



15,643





21,355

31,703



44,069




28,506
27,237
39,660
31,703
36,978


59,712
113,526
101,499


12,382
18,008
3,923
16,070
6,373


51,438
20,587
19,363


163,140

 *明治24、31年の貨物運賃には船客運賃を含む
 各年『函館区役所統計表』『函館汽船会社事業報告』『北海道庁拓殖年報』より作成
 
 役員についてみると、26年に広谷順吉が専務取締役となり28年には広谷源治がその職につき、33年になると田中正右衛門が社長職に復している。田中は一時役員からおりるが、その後再び役員となる。
 このように函館汽船会社は社外船の一翼を担う海運会社として、日清戦争前後の有力な社外船主のひとつであり(『神戸海運五十年史』)、また同社の29年度上期における総資産額は21万8000円となっているが、これは全国の海運会社のなかで9番目に位置付けられている(「日本全国銀行会社資産要覧」『近代日本経営史の基礎知識』)。20年代には道内の主要港湾を基地とした多くの海運会社が設立されるが、永続することなくその大半が間もなく解散していくのを尻目に函館汽船は順調な成長を遂げる。社外船の団体であった日本船主同盟会の34年の主要社外船一覧にも函館汽船会社の3隻の船舶が含まれるように、地方の主要汽船会社として発展していったのである。