こうして対外的には函館器械製造所所有船として運航していたわけであるが、実際の貨物・乗客の取り扱いは18年の創業当初は東浜町の回漕店丸![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 回漕業の利益はすべて次船の建造費あるいは買入れにあてられたが、明治25年までに前記の矢越丸、恵山丸のほかに神威丸(22年建造)、花咲丸(同25年)を函館造船所(函館機械製造所の後身)で建造した。また23年3月には渡辺熊四郎と支配人の池田直治は汽船購入のために上京した。その時に購入したのが豆海丸(前年に神奈川県広峰造船所で建造)であった。この豆海丸は回航時に横浜から鉄道工夫30名(宮古で下船)、宮古からは漁夫80名を乗せて函館に到着している。函館に回航後に船体の改良工事を施し船倉部を拡幅した。その結果、96登簿トンから148登簿トンとなり、船名を雷電丸と改称した(23年5月24日「函新」)。この間21年末ころから青森便にも進出し、さらに豆海丸を購入後は同船と神威丸によって新潟行きの船便を出している。従来の道内便重視から青森や、新潟方面の道外航路へものりだしていくのである。ちなみに金森回漕組と改めた22年における道内での実績は矢越丸が室蘭・幌泉方面が84回、恵山丸が厚岸方面61回、神威丸が浜中・根室方面20回であった(23年1月8日「函新」)。 |