こうして対外的には函館器械製造所所有船として運航していたわけであるが、実際の貨物・乗客の取り扱いは18年の創業当初は東浜町の回漕店丸三倉屋(三橋)和太郎に委託している。その後、東浜町丸宮宮路、中浜町田辺の各回漕店も取り扱うようになり、21年末では三倉屋回漕店を始め運送舎(三上保五郎)、渡辺覚三郎、宮重文信の4軒の回漕店が貨客の取り次ぎ業務を代行していた。ところが渡辺熊四郎は20年6月に船場町9の倉庫3棟を日本郵船から購入し倉庫業を始めていたこともあり、それまで全面的に回漕店に依頼していた業務を自らも取り扱うことにして、同所に汽船取扱所を設け直営方式を導入した。さらに22年になると、それを金森回漕組と改めて本格的に海運業に乗り出しはじめた。22年1月4日の「函館新聞」に「汽船取扱所、船場町の汽船恵山丸及矢越丸の取扱所は去る一日より金森回漕組と改称す」と報道されている。これは船主として、また回漕業務すなわち貨客の確保、取り次ぎ業務、そしてあわせて倉庫業も兼営するという本格的な海運業の創始といえるであろう。ちなみに大手の海運会社は全てこの発想で行っている。こうしたところにも渡辺熊四郎の先見性を見てとることができる。もちろん旧来からの回漕店との関係も維持されてはいたが、この金森回漕組の改称ということは単に名称の変更にとどまらず本格的な海運業に手を伸ばすということを意味したのである。 回漕業の利益はすべて次船の建造費あるいは買入れにあてられたが、明治25年までに前記の矢越丸、恵山丸のほかに神威丸(22年建造)、花咲丸(同25年)を函館造船所(函館機械製造所の後身)で建造した。また23年3月には渡辺熊四郎と支配人の池田直治は汽船購入のために上京した。その時に購入したのが豆海丸(前年に神奈川県広峰造船所で建造)であった。この豆海丸は回航時に横浜から鉄道工夫30名(宮古で下船)、宮古からは漁夫80名を乗せて函館に到着している。函館に回航後に船体の改良工事を施し船倉部を拡幅した。その結果、96登簿トンから148登簿トンとなり、船名を雷電丸と改称した(23年5月24日「函新」)。この間21年末ころから青森便にも進出し、さらに豆海丸を購入後は同船と神威丸によって新潟行きの船便を出している。従来の道内便重視から青森や、新潟方面の道外航路へものりだしていくのである。ちなみに金森回漕組と改めた22年における道内での実績は矢越丸が室蘭・幌泉方面が84回、恵山丸が厚岸方面61回、神威丸が浜中・根室方面20回であった(23年1月8日「函新」)。 |