紋鼈・室蘭航路は前に述べたように創業時からの回漕組の主要航路であった。22年ころでは繁忙期に月12、3回も航海するまでになっていた。また紋鼈の地場商人も20年代になると汽船を購入し、紋鼈・函館間や紋鼈・室蘭間などの輸送が活発になってきた。金森回漕組は24年10月に室蘭にも出張所を設け、また翌年には毎日の定期便を開いた(『新室蘭市史』第2巻)。紋鼈も30年ころには本道有数の農業地となり、またマッチの軸木などの工業品の出荷もみられ函館を唯一の取引地としていたが、同地の移出入額も年額4、50万円ほどになっていた(30年12月5日「樽新」)。これらの輸送の大半を金森回漕組が扱ってきたわけであるが、紋鼈の地元商人たちは別に海運会社を興すことにした。それが明治31年に紋鼈の雑穀仲買人や海産物商が中心となり設立された噴火湾汽船会社であった。株主が荷主も兼ねたこともあり、胆洋丸(142トン)をもって西胆振の海産物を紋鼈・室蘭・函館の各地に輸送するなどして金森回漕組と激しい競争を展開した。『初代渡辺孝平伝』によると1年ほど競争したが噴火湾汽船のほうから示談を申し込まれてきたので、それに応じて絵鞆丸と木の川丸の就航船をはじめ、紋鼈、室蘭、虻田の3箇所の倉庫、取扱店を譲渡してこの航路から撤退した。そのかわり噴火湾汽船会社の函館での回漕業務は金森回漕組で扱うこととした。
金森回漕組の汽船はすべて渡辺熊四郎の名義になっていたが、実際の船主は渡辺個人ではなく共同出資で購入あるいは建造されたのであった。『初代渡辺孝平伝』によれば矢越丸を建造したものの買手がつかず製造所の運転資金に窮していることから渡辺が7000円、平田文右衛門が3000円出資して共同で購入した。いわゆる匿名組合といわれた船舶所有の一形態であった。また運転資金も必要であることから池田直治と回漕問屋の三倉屋三橋和太郎が、それぞれ1500円ずつ出資して4名の私的な組合組織で運営したとある。最初は利益を出しても次船の購入に当てることにして徐々に所有船舶を増やしていった。共同出資者には配当金を出さずに積み立てしていたが、34年ころに船舶の売却益などをはじめて配当金にあて、翌35年には末広丸の遭難を契機として積立金の清算をして匿名組合を解散して、汽船は渡辺熊四郎個人のものとなった。35年12月から金森回漕組から金森回漕部へと名称変更する背景には以上のような経営形態の変化が反映されていると思われる。回漕部は明治39年に渡辺家の本家、分家の分離により金森合名会社となり、海運、倉庫、船具、不動産を扱い、さらに大正5年には金森商船(株)へと改組された。