明治新政府が成立した当初の貨幣制度は、徳川幕府体制末期の紊乱をそのまま受継いだ状態であった。積極的な対策を打出す余裕もなかったので、明治元(1868)年2月、古金銀および外国貨幣を国内に通用させる太政官布告を発したように、しばらくの間は旧来の貨幣が大部分そのまま通用した(『北海道金融史』)。
同じく同史料によればさらに、旧来の習慣によって劣悪な2分金・1分銀・銅鉄諸銭を鋳造した。さらに戊辰戦争で東北地方の鎮定に時がかかり、討征に参戦した諸藩では軍費を捻出するため、劣悪な貨幣を鋳造して急場を凌いだ。なかでも2分金が最も劣悪で、行軍に伴って各地に流布して、流通貨幣はこれによって多くを占められる状況であった。
箱館戦争では政府軍が勝利をおさめて引き揚げたのち、多量の贋金(劣悪鋳貨)が残されていた。箱館府は「賊徒吹立候贋金御用ニ付、裁判所へ差出可申事」という触書を出して回収を図った。なおこのことは、外国人からも強硬な談判を受けていた。なお旧幕軍の五稜郭週番士官丸毛利恒「感旧私史」(山崎有信「函館戦史料」大正2年11月4日『函館毎日新聞』)の「新たに二分金を鋳造すること若干万円」という当事者証言で、旧幕軍の貨幣鋳造が証明された。
紙幣の方はどうかといえば、藩札の通用がそのまま認められていた。明治元年4月の現在の藩数は281藩のうち、235藩が藩札を発行しており、明治以後も多くの藩で藩札(大部分銀札代りの銭札・小単位の金札)の発行を続けた(山口和雄『貨幣の語る日本の歴史』)。
新政府の発足当初は確固たる財政的基盤をもっているわけではなかったので、財政補填と殖産興業政策を逐行するための資金創出策として、明治元年5月太政官札を発行した。太政官札は不換紙幣で、額面は10両・5両・1両・1分・1朱の5種で、明治2年7月までに4800万両の発行高に及んだ。しかし国民が慣れないことと、政府の信用がまだ固まっていなかったことによって、流通が円滑におこなわれなかった。その価値は下落して、政府法令の力をもっても安定させることは困難であった。その後、流通がようやく良くなり始めると、今度は贋造が現われてきたので、また国民の間に疑念が生じてきた。ことに北海道は2年7月から省・府・藩・華族・士族・寺院によって分領支配されていたので、それぞれの通貨がさらに混乱を加える条件となった。明治3年6月、政府が贋模紙幣巡察順序を定め、開拓使に密諭を発して、北海道は各藩の人員が多いので紙幣が輻輳してそれぞれを識別することに慣れていないこともあり、とくに清国人が紙幣を偽造しているようなので、外国船舶が入港した際は綿密に検索し、清国人の銀舗を探偵することにした。ついで同年10月、開拓使は函館人民にたいし所持している金札を運上所内の検札所へ持参して検査を受けるようにという布達を出した。先進国からの抗議もあり、太政官札の貸付を軸とする流通主義的殖産興業政策は失敗に帰した(『北海道金融史』、『日本銀行百年史』第1巻)。