三井家と北海道の関係は古く、徳川幕藩体制の時代に遡り、蝦夷地が幕府直轄時代である万延元(1860)年に御為替御用達三井八郎衛門(高福)が幕府勘定所より箱館会所産物元仕入金集方掛屋御用達を命ぜられている。明治政府が成立して、明治2年に開拓使が設置されてからは、函館会所が通商司の所管に属したのに当って、同年9月に八郎衛門が開拓使御用掛総頭取に、また同年12月には高福名代三野村利左衛門が北海道産物掛総頭取に任ぜられている。同3年に函館会所が開拓使の所管になってからは、島田、小野両家とともに開拓使御用達北海道産物取締方となった。このように三井は、北海道においても政商路線の道を歩み出していた(『北海道における三井銀行の歩み』、『北海道金融史』、安岡重明『三井財閥史』近世・明治編)。
また三井は維新以来、元年2月に会計局為替方御用(島田・小野とともに)として政府の金融事務を担当し、あるいは為替会社の総頭取の地位について、着実に近代的銀行業者としての体験を重ねてきた。明治4年6月、さきに述べたように、政府の新貨鋳造事業で一つの役割を担った。地金回収と新旧貨幣交換の御用を命ぜられたのである。この事業を進めるに当って、鋳造に必要な地金銀の獲得が必要であった。当時、2億円を超える通貨量にたいして、手持ちの地金銀はわずかに760万ドル余りの洋銀と20万8000両余の贋2分判にすぎなかった。そのため、新貨幣との交換によって、地金銀の回収をはかることが急務であった。三野村利左衛門はこの新事業に着目し、弊制改革の担当者である井上馨や渋沢英一に熱心に要請し、同4年6月にこれを引受けることになった。しかも維新いらい為替方3家として同列に待遇され、肩をならべてきた小野・島田両家を排して、単独でこの新貨幣為換方を拝命した。三井では、これを御用為換座と称した。両家は三井家だけの待遇について抗議を申し入れたが、政府の容れるところとならなかった(『三井銀行一〇〇年のあゆみ』、前掲『三井財閥史』近世・明治編)。
さらに重要なことは、この任務が単に地金回収と新旧貨幣交換の委嘱だけを意味したのではない点である。大蔵省の指令によると、この業務を基礎として「真成之銀行」を創立することが勧奨された。そこで従来の店々を全戻して、東京・大阪・京都・横浜・神戸・函館(5年1月開設)に為換座を設立することを定めた(『三井銀行一〇〇年のあゆみ』)。
三井組が政府から命ぜられたのは、「新貨幣御発行為換座御用」であって、その内容は、地金を受けとり、新貨幣を渡す、地金は造弊寮へ送る、ということで、現代でいえば日本銀行の役割に近い業務であった。また為換座三井組は国立銀行の発足までの間兌換証券(大蔵・開拓使)を発行したことはすでに述べた。しかも、貨幣流通を促進するため、東京そのほか各地に「真成之銀行」を建てるよう努力せよ、と命ぜられたのである。これが北海道における三井組の金融業務活動の発端であった(前掲『三井財閥史』近世・明治編)。