第百四十九国立銀行の設立

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 第百十三国立銀行とともに、函館にはもう1行の国立銀行が設立された。それが、ここで取りあげる第百四十九国立銀行である。ところが、この銀行と密接な関係を持つ江湖組(明治9年設置)の株主についてのある疑念を開拓使当局が抱いたため、事情調査が進められていたのである。時任大書記官が長官宛に上申した起案文書が、次のように記録されている。
 
江湖組当港、分店ノ義事情探偵ノ次第別紙ノ通時任大書記官上申候ニ付此段開申仕候也
 明治十二年三月十四日
   江湖組分店開業ニ付事情上申
東京西川岸町荷為替商店江湖組ト唱ルモノ当地ヘ分店開設致シ度旨規則書添同組長崎県士族小美田利義ヨリ出願取調為致候処本組ハ明治十年一月中東京府ノ許可ヲ得テ設立シ該組営業ハ元本使御用達木村万平等専ラ負担尽力候趣ニ相聞ヘ且ツ本組許可ノ証ナク明治六年大蔵省第百八十四号布達第四項ニ低触ノモノニ付一応東京書記官ヲ経テ同府ヘ照会ノ処目今会社条例取調中ニ付当分人民相対ノ営業ト可相心得ト指令及ヒタルニ付右ノ主趣ヲ以テ開置可然旨出張所ヨリ報答有之則チ去月中東京府同趣意ヲ以テ指令致シ置候然ルニ木村万平ハ曽テ本使ニ対シテ不体裁ヲ釀シタルモノ又前顕小美田利義ハ旧島原藩士ニシテ旧藩主及士族等ト当地ヘ銀行設立ノ見込ヲ以テ其筋ヘ出願既ニ許可ヲ得タル趣ニ付一応内探為致候処小美田ハ勿論其外ニモ同組ニテ株主ト為ルモノ数名アリ尚此地ニテ株主ヲ募リ候由到底江湖組営業ハ右銀行(今度許可ヲ経テ設立スルモノ第四十九号銀行)ト併立シ専ラ営業ノ目的ニ相見ヘ木村万平ハ株主ノ一人ナルヤ否判然不致且ツ東京出張所今般照会ノ書面ニ依レバ東京本組ハ目今万平伜木村万次郎名義ニ候由別紙景況聞取書ト共為御参考添一応此段上申申仕置候也
   十二年三月十一日
時任為基                    
(「開公」五九〇四)    

 
 このように「不体裁ヲ釀シタルモノ」元開拓使用達木村万平の江湖組(大阪)および第百四十九国立銀行との関係について開拓使がいかに警戒の目を注いでいたかがわかる。それはそれとして、荷為替商店江湖組と士族主導型の第百四十九国立銀行との間柄が浮び上ってきた。
 時任上申書は明治12年2月17日付で村尾元長が、開拓使大書記官時任為基へ詳細に報告したものが基礎となっている。調査聞取りの相手は小美田利義で、第百四十九国立銀行に密接な関係を持つ江湖組の幹部でもあるのでこの組の設立事情も同時に調査している。
 江湖組は明治9年に木村万平などが中心となって、大阪に荷為替を本務として開業した。東京その他各地に支店を設けて営業を拡大したが、わずか6か月で次第に資本を損耗し、活動資本を本組に引上げて閉店した。ところが再び東京を本拠として、大阪、馬関(下関の別称)等に分店を設けて開業しようとしたが、そこまでに至らなかった。続いて明治11年4月中より業務を興隆しようと図り、東京府の許可をえて開業した。しかし従前発覚した木村万平の失敗からみて、幹部の人選論議が起ってきた。
 元来江湖組の資本金は肥前旧島原藩主某氏(河野常吉編著『北海道史人名字彙』上では松平氏)の金で組立てたもので、今後もなお資本を送ろうというのである。臼杵藩知事(稲葉氏)もまた著名な金満家で、旧島原藩知事と懇親の間柄であったので、双方の家令・家扶が相談して決定したのが、木村万平ただ1人に委任すべきではないということである。双方の旧藩士その他相当の人を選んで役員とし、業務を拡張して目的を達成しようと図ったのである。小美田利義はその1人であった。
 この時、旧藩主両人ならびに家令・家扶などの議論で、東京府下に銀行の開業を決定しようとした。しかしながら、島原旧藩主某は九州地方の会社に若干の金を支出するため、銀行を東京地方に開業することを猶予した。そこでついに大蔵卿(大隈重信)に意見を求めることを内定した。その後大蔵卿と島原藩主と面会した際に、「大蔵卿ヨリ発言ニテ銀行ヲ開ク事ヲ促スニ依リ其地方ハ何ノ地位ニ在ルヤヲ問フニ各府県下既ニ銀行設立ニ制限アリ設立スヘキ地ナシ只北海道ハ未タ制限ニ満タス且ツ該地ハ物産多ク函館ノ如キハ漸次ニ繁盛ノ勢ナレハ先該地ニ設ケル方適当ナルヘシ之ヲ設立スルニハ所有ノ古金銀ヲ政府ニ上納シ紙幣ト引換之ヲ以テ其方向ヲ立ル可然等種々ノ説明ニ依テ始メテ函館ニ銀行ヲ開設スル見込ミヲ立タル趣」(「開公」5904)となったのである。
 このように、島原旧藩主は古金銀を紙幣に引換へ、その紙幣をもって旧藩主の公債証書を買上げて銀行の資本にあてようと見込みを立て、稲葉氏(臼杵旧藩主)と相談しあった。しかし稲葉氏は30万円の資金で東京に銀行を設立することに決し、政府の許可をえて設立した。これが明治11年12月東京に開業した国立第百十九国立銀行である。だが、これまでの経過から旧島原藩主の資金をもって銀行を開設する場合は互に補助する約束で函館銀行(第百四十九)設立に着手した。なお第百十九創立当時の重役は、頭取村瀬十駕、取締役稲葉鍉次郎、稲葉頼、堤正峯、実相寺利氏、水高昌などで、いわゆる稲葉家の家令・家扶等の人々かもしれない。
 小美田利義は第百十九国立銀行開業を終り、すぐ函館に出張して江湖組分店長となった。営業拡張に努め、あわせて銀行株主を函館でも募り、開業の目的を立てて来函したのである。木村万平より話があった井口嘉八郎(内澗町平民、元戸長)に相談して3、4名の同志を募り、株主となることを約束させた。戸長白鳥宇兵衛もその中に入っている。銀行開業を願い出たところ許可されたが、銀行資本金は30万円から20万円に減ずるよう内達があった。函館の景況から見て20万円でも開業すべきと考え、更には13万円に減額し、1株50円、株数2600株とした。発起人は島原藩の小美田利義で、金主は島原藩主であった(『三菱銀行史』、「開公」5904)。
 ところが宿利重一『荘田平五郎』によると、株主の払込が思わしくないので、旧臼杵藩主稲葉家も10万円を出し、『三菱銀行史』によると旧島原藩主松平家より3万円の出資をえて第百四十九銀行はようやく開業をみるに至った。いずれにしても、第百四十九国立銀行の株主のなかに、第百十九国立銀行の株主が入っているようだ。明治17年には頭取は渡辺享が島原、小倉退蔵、稲葉頼の取締役が臼杵、小美田取締役が島原、井口取締役が地元函館である。第1回考課状には、重役8名のうち、5名は旧臼杵藩のものである。要するに旧島原、旧臼杵両藩の関係は、小美田が述べた家令・家扶の親密な連係プレーがここに現われたものであろう。
 また、両国立銀行と楽産商会(江湖組の後身)との関係であるが、『三菱銀行史』によれば、「明治十年の西南の役後政府紙幣が増発せられ、他方国立銀行紙幣の流通も盛んとなった一般物価の騰貴を来たし商業は殷盛を極めた。当時小美田利義同志を集めて北海道の産物を内地に輸送販売するため楽産商会の設立を企図し、第百十九国立銀行並びに第百四十九国立銀行を勧説して各々に壱万五千円合計三万円を出資させ、その代わり同商会の輸送貨物の荷為替は総べて函館の第百四十九国立銀行を経て東京の第百十九国立銀行宛取組むこととした。」というように両銀行の出資で設立され、取引上密接な関係に結ばれていた。
 楽産商会が江湖組の後をついだのが明治13年5月27日だが当時は物価騰貴で収益が非常に上り、同商会の事業は大いに発展した。翌年12月に業況の拡大に対応して資本金の増加を図ることとし、郵便汽船三菱会社に対して増資額15万円の借入を申込んだ。これに対して三菱会社(三菱為換店)は楽産商会が期日に返金できない時の第百十九並びに第百四十九両国立銀行の弁済保証を取り、かつ楽産商会の輸送貨物はことごとくこれを同社社船に積載することを条件として貸出に応ずることとなった。
 なお貸出の目的は約定書中に、楽産商会の北海道漁場ならびに同地出産を奨励振作するためと記載されている。楽産商会の借用人として実相寺利氏(臼杵)、小美田利義(島原)、斉藤辰四郎、引受証人として第百十九国立銀行頭取村瀬十駕(臼杵)、第百四十九国立銀行頭取渡辺享(島原)が名を連ねている(『三菱銀行史』)。
 ところが楽産商会が資本金を増加したころより、わが国の経済が景気反動期に入って一般物価が下落に転じた。このため例えば函館発送のさい時価の7掛で為替金を融通した貨物でさえ、東京着のころには価格が下落して運賃、保険料等を支払えば為替金の支払に不足を生ずる状態となり同商会は出荷するにつれて損失を累加し、17年秋には遂に破産状態となり、関係両国立銀行もまた経営困難に陥るに至った。若し債権者である郵便汽船三菱会社が強硬な態度に出て銀行まで破産することとなると、第百四十九国立銀行は事実上旧臼杵、島原両藩主の出資によるもので、その影響はさほど甚しくなかったが、第百十九国立銀行は多数の旧臼杵藩士の世禄を挙げて出資設立したものであったから、多数の同行株主が悲境に陥ることは明らかであった(同前)。
 三菱会社は当時三菱為換店の廃止を決定してその業務縮少を図りつつあったから、特に銀行経営の積極的意思は無かったと考えられるが、両銀行破綻による影響を斟酌して銀行首脳者の懇請をいれてその経営を継承することに決定し、資本、業務の両面で密接な関係にあった第百十九、第百四十九の両行を先ず合併させることになった(同前)。
 こうして第百十九国立銀行と第百四十九国立銀行は明治18年3月16日合併契約を締結し、第百四十九国立銀行は貸借差引残高皆無としたうえ、同行株主より1株に付50円(総額13万円)の新規払込を徴収することとし、第百十九国立銀行は資産負債差引残高を株式払込額30万円と評価した。ついで4月18日政府の許可を受け5月7日合併を実行した。こうして新資本金43万円の第百十九国立銀行を三菱会社が引受けることとなった。ついで明治18年5月28日に臨時株主総会で頭取、取締役、支配人全て三菱会社関係者で占められ、8月6日には同行株式はことごとく三菱会社社員の手に納まった(同前)。