明治の初期はマッチは輸入品として貴重品扱いをされていた。元加賀藩士の清水誠は明治6年文部省の留学生として、フランスの工芸大学に派遣され諸技術の習得に努め、翌7年10月に帰国した。その後東京で黄燐マッチの製造に取り組み、9年には東京本所で新燧社を設立しマッチ製造の営業を始めた。これが日本人によるマッチ製造の始まりとされている(石井研堂『増訂明治事物起源』)。清水がヨーロッパの確かな知識、技術の裏付けによってマッチの製品化に成功したのと対照的に、同じころ函館においてまったくの独学で、なおかつ囚人が同様の試みをして開拓使の官営事業として開業までこぎつけた事例がある。
東川町の懲役場で服役中の玉林治右衛門は模範囚として服役し、総囚取締を命じられたが、獄中で勉学の念を起こし洋書を借り受けて北海道に適する事業を模索した。その結果道内は動物資源が豊富であり、燐製造を試み、これをもってマッチ製造に着手することを思いついた。
玉林は開港期に来函して物産商を営んでいた。玉集丸など和船3艘を所有し産地からの昆布を集荷をしたり、函館在留の外国商人へ売却するなどの営業にあたっていた。しかし明治5年にハウルなどとの取引で数万円の借財を作り、逃亡していたが、6年4月に捕縛されて身代限りとなった。同人の財産を公売に付して債権者に応分に支払ったが、それでも不足していた。このため身代を持ち直した後に不足分をとりたてることにしたところ、外国人との取り引きで所持の手船を二重に引当として売却するという事件を引き起こした。このため7年4月に詐欺罪で懲役10年の刑に処せられた(「開公」5595)。
玉林は元伊予の大洲藩士で16歳のとき江戸で杉田玄端の門下生となり蘭学を修めたが、同門に大鳥圭介や肥田浜五郎がいた。また長崎で村田蔵六につき砲術を学び、その後同郷の武田斐三郎の北海道行きを知り玉林も来函した(13年12月24日「函新」)。若い時に身につけた学問が逆境の時の玉林自身を助けたということになろう。
入獄して事業に成功するまでの過程は13年10月9日から同年12月24日までの「函館新聞」に「玉林治右衛門事蹟」と題して8回にわたり連載されている。その新聞記事によってみてみよう。獄中にあった玉林は前非を悔いて官吏に洋書数冊を請い、これらの書から北海道に適した事業を研究しはじめた。そのなかで燐製造のことが目にとまり、北海道は動植物が豊富であるので獣骨で燐を製造し、これをもってマッチを製造すれば輸入品を防ぐことができ、また事業を拡大すれば無産の貧民を就業させることができ、開拓の趣旨にも適合するということから試みることになった。玉林はその旨を願い出るとただちに許可されて、まずマッチの軸頭に用いる燐を製造するための燃料や試験材料を受けて服役のあいまに、場内の片隅の古い小屋で試験を始めた。数度の失敗を経て7年8月に燐結晶の製造に成功した。次いでマッチ製造にとりかかろうとしたが、その製法を知らないため支庁の外事課や函館病院の製薬分析の洋書を借用したが、いずれも参考にならず、自己流で薬材を試みたところ8年9月にようやく燐製マッチを製し、製品検査を願い出た。これが第1回目のことであった。しかし、この試製品は旧製造法にもとづき危険で、かつ臭気が人体に害があるということで却下された。その後薬品の爆発による火傷を負ったり、また9年の春には過労のために作業を中止するまでにおいこまれて困難に面していた。しかし新燧社の活況の報が伝わるや玉林は奮起して、同年7月に硫黄の下付を願い出て、同時にドイツ製のマッチを与えられたので、その頭薬の分析をした。玉林の奮闘ぶりに掛員も当初は好意的であったものの、さすがに度がすぎると映ったようである。しかし玉林のひたすらの熱心さに根負けしたのか、ついに積極的な支援をすることになった。
軸木部分の改良を計画した玉林に木質検査のために湯川近傍への調査を許可するほどであった。この調査結果、白楊を原料とするのが適当であることを発見した。軸木を白楊として製造し提出したが、軸木については評価されたものの依然臭気が強く却下された。このころ札幌本庁から物産局の石橋俊勝1等属が来函したので、赤酸化燐の製法を学んだ。10年8月に再び試製品を作り実用可能のところまでこぎつけることができた。それは玉林が事業に着手してから3年余、8度目の試製品であった。函館支庁ではこの製品を需要に適すると判断し札幌や東京その他の地方に送り、また東京の新燧社へも見本を送り品評を請うたところ、同社は最良品であると評価した。ここにおいて若干の器械を購入して、試験製造に取りかかった。11年3月函館支庁は元松前藩士族3名を採用して玉林へ伝習することを命じた。