明治5年室蘭の加納嘉助が辻造船所に依頼し、建造された30トンのスクーナー形の室蘭丸が維新後における函館での西洋形帆船建造の始まりであった。また6年には会所町に住む三石の漁場持の小林重吉が同じく辻造船所に発注し、虎久丸(74トン)を建造した(ただしこれは旧常燈船信敬丸を改造したものである)。小林重吉は民間人として始めて函館における西洋帆船の所有者としては先駆け的な存在であった。明治初年の不況感から徐々に脱してきた函館において民間における造船ブームが到来しつつあった。そして明治8年に出された開拓使布達によって函館の造船界は大きな転機を迎えた。5月に布達された第4号の内容は北海道に船籍を持つものについては布達後、500石(トン換算で約74.4石)の和船の新建造を禁止するというものであった。
開拓使は和船新建造禁止令を出したわけであるが、それはとりもなおさず西洋帆船の奨励政策と表裏一体でもあった。函館では500石未満のものでも西洋形で建造されるようになった。開拓使官僚の先進性が函館の船主層に浸透し、またその利便さを理解するようになり、ここに4造船所は一大造船ブームというべき時を迎えた。この布達が功を奏したのはもちろんであるが、全国的な景気上昇を背景にして、函館の経済界も活況を呈して、船舶建造への資本投入が容易になったのである。
明治11年に開拓使は造船請願条例を定めて西洋帆船製造希望者に融資の道を開いた。その効果のほどは不明であるが、函館に関しては明治14年の状況として「現今管下人民ノ実際ヲミルニ、西洋形船ノ効用ヲ了解シ、只賃物運輸営業者ノミナラズ一般ニ船舶改良ノ点ニ注目シ、官貸ヲ仰ガザルモ追々製造既ニ本港ノミニテ六十七艘ノ多ヲ致シ、尚資力アルモノ追々製造ノ景況ニ有之」(明治14年「雑書」道文蔵)とあり、官金貸付によらないで自己資金の投入が活発であったことがわかる。明治9年以降開拓使期の最後の年にあたる14年までに函館で建造された西洋帆船は65隻にもおよんでいる。これらのうち函館を船籍とするもの57隻、その他は根室、福山、室蘭の道内であった。