こうした気運を受けて、渡辺熊四郎、今井市右衛門、平田文右衛門(実際に活動したのは兵五郎で、明治24年に8代文右衛門となる)、浜時蔵(同12年に平塚姓に改称)の4名の商人が船渠を持ち鉄工部門をあわせて持つ造船所の設立の運動に乗り出すことになった。明治11年6月渡辺らの連名で、次の出願書を開拓使函館支庁に提出した。
私共今回当港ニ於テ造船所製鉄所設置仕度ニ付歎願仕候 右ハ当港ニ於テ船艦ヲ保護シ運輸ノ便益ヲ得セシメ、必用急需欠ク可ラザル者ニシテ是マデ未ダ設置無之ハ実ニ当港ノ一失ト奉存候、因テ私共今回右設置ヲ企ントスルニ於テ、先、第一巨額ノ貲金ヲ要セザルヲ得ザルノミナラス是レガ設置ノ場所ヲモ択バザルヲ得ズ、此ニ於テ篤ト思考仕候ニ其事業到底私共両三輩ノ力能ク及ブベキ処ニ非ラズ、去リトテハ又当港ノ利便ニ関シ第一ノ急務ト奉存候事業ヲ此儘ニシテ打棄置候ハ、是又遺憾ノ至ニ御座候、因テ更ニ之レヲ熟考スルニ其事業固ヨリ私共両三名輩ノ私益ニ関渉スルモノニ無之、一般ノ公益ノ為メニスルモノニ御座候ヘバ、寧ロ公然之レヲ御使ニ請願シ其御助力ヲ仰キ候方最モ捷路ト存シ因テ先ツ之ヲ請願スルニハ則其地所別紙絵図面ノ通リ、仲浜町船改所ヨリ幸町ニ至ルマテハ造船製鉄所ニハ最モ適応ノ地ニシテ、当港内ニ於テハ此地ヲ除キ他ニ代用スベキ地無之ト奉存候間、同所ニ於テ船渠並ニ機械庫等相設ケ度、尤右地所ノ内幾分カ官用ニ供セラレ候トモ差支無之、因テ右場所該業ニ適当仕候様官ニテ御築立ノ上私共四名ヘ相応ノ税金ヲ以テ御貸下被成下度懇願仕候、左候ヘバ自余ノ経営造作ハ私共ニ於テ取計ヒ、必ラズ其事業ヲ盛昌ナラシムルノ目的ニ御座候、此一事業前文縷述スル如ク当港一般ノ利便ニ関スル義ニ候ヘバ、前顕ノ旨趣篤ト御詮議ノ上何卒御許可可相成候様仕度伏テ奉願上候也 明治十一年六月 第十五大区五小区内澗町三八番二ノ地 渡辺熊四郎 印 同町十四番地 今井市右衛門 印 同町十八番地 平田文右衛門 印 第十五大区四小区大町四十三番二ノ地 浜時蔵 代浜善治 印 開拓権大書記官 時任為基 殿 (明治十一年「長官北海道出張中函館支庁伺上申録」道文蔵) |
彼らは、出願書のなかで函館港において船舶保護や海運の便益を図るため船渠築造と鉄工場の必要性を訴え、私企業として発足するものの、彼らの資力のみでは経営維持が困難であり、かつ私益より公益を優先すべき事業であるとの理由から開拓使の援助を求めた。その内容は、仲浜町船改所と幸町の間の地先海面4000坪弱の埋立にかかる経費1万4893円を官費から支出し、それを船渠用地として、埋立完成後に出願者に貸与することというものであった。この時点での渡辺らは、当面の条件作りとして造船所用地の海面埋立に主眼を置いており、まだ造船所についての全体的な構想を持っておらず、運動を展開するなかで具体化していったようである。
この事業の公益性を評価した函館支庁は、7月10日埋立の経費を出港税収入から1万円、残額を別途支出とする内容の指令を長官に仰いだ。この伺書のなかで函館支庁としても、かねてから船渠製鉄所の設置の計画があったが、このたび民間有志が結社し、事業着手を示したので、官においても保護したい旨が述べられている。また『函館船渠設置の沿革』によれば、発起者たちは船渠設立をある筋から勧誘されたとあることから、官費支出を受け入れようとしたことは、あるいは函館支庁の渡辺らへの働きかけがあったとも考えられよう。いずれにしても彼らのなかに新規の企業創設の熱意と新しい時代を象徴するような実業家としての側面をみることができる。函館支庁は東京出張所へ伺書を送付したが、即答を得られず、黒田長官が来函した8月22日に埋立を許可する決裁を得た。
決裁後函館支庁は、出願者に同月28日付を以て海面埋立の件は許可を受けた旨を伝え、さらに精細な絵図面、仕様書の提出を命じた。これに対する具体的な動きは不明であるが、「(十一年)十一月ニ再ビ願書ヲ本使ニ呈シ、凡三万五千円ノ費用ヲ以テ船改所前面稍西ナル海中ニテ曽テ発見セル平面ノ盤石ニ依リ簡易ナル木製船渠ノ築造ヲ為スコトヲ再願ス」(「函館仮機械製造所設立の原由并景況要略」前掲『饒石叢書』、以下「景況要略」と略す)とあり、このことが出願者の指令に対する対応の一端を示すものと考えられる。