また、輸出品は「縄掛ケ」と言われ、これは背筋および口部を取らずに縄にかけて乾し、1、2日後足を纏めて結び「タルキ」に懸けて乾燥する。函館区における製造所は37年89か所、38年80か所となっているが、調査が漁期に入って間もないので「増加すべき見込みなり」と記述されているから最盛期に入ってから鯣製造に転ずるところが多かったことを示している。
国内向け鯣の製造費は、1梱当たり表9-49のように示されている(鯣20枚=1把、100把=1梱〈200枚〉)。
函館区にはこの種の製造を行うものが約20か所あり、多くは商人の委託で製造している。商人は1梱の鯣に対して製造および荷造費として1円50銭と乾燥中における毀損亡失を補償する「カン料」50銭を製造業者に支払う。商人は生魚買入の時の帳簿に照らして製品を受取り、販売後利益を製造業者と折半する。また、自己の計算により営業する製造業者がいるが、生烏賊買入資金を商人から借入する場合乾燥したものをその商人に売却するか、あるいは委託販売を行い資金を返済する。このときの貸付利子は月3分内外、販売口銭は2分5厘である。清国向け製造費は、1梱当たり表9―50の通りである。
表9-49 国内需要向け製造・荷造費
製造費 | 荷造費 |
切裁賃 30銭 洗浄賃 10銭 列へ賃 30銭 裏返賃 15銭 結束賃 20銭 | 筵代 10銭 縄代 銭 俵代 7銭 荷造手間 9銭 |
計 1円5銭 | 計 35銭 |
『殖民公報』第28号より
表9-50 清国輸出向製造費
掛ケ方 「タルキ」取 「ノシ」賃 結束賃 縄代 | 20銭百枚に付 1銭 10銭同 5厘 10銭同 5厘 15銭同 78厘 10銭 1把 1厘 10銭 同 1厘 |
計 | 75銭 |
『殖民公報』第28号より
これに100坪の乾場では生烏賊の洗浄、監視、その他の雑役に従事する労働者2人を必要とし、食料は雇主の負担で月45円の給料を払う。鯣製造設備は簡単で経費は少なくて済み、かつ製造期間が短く資金の回収が早く、一時の投資額が小さく比較的安全な事業であったとされている。製造業者は、原料購入資金を海産商に仰ぎ、製品を商人に引渡し資金の返済に充てた。商人は、貸付利子を月3分内外とし、販売に対しては月2分~2分5厘の口銭を得ていた。
函館区の鯣は総て函館商人により買収され、多くは横浜および神戸の商人に送られそこから輸出された。北海道産鯣の90パーセントが函館に集荷されたが、ほとんどは横浜および神戸商人の注文に応じて買次ぐ形態にあった。北海道産鯣の60パーセントは横浜、40パーセントは神戸に送られたとされている。明治30年に発行された村尾元長『北海道漁業志要』によれば、剣先鯣の販路は関東地方で、その他は上海より漢江、九江、鎮江等の市場を経て各地に分荷された。四川省20パーセント、江西省20パーセント、天津20パーセント、湖北省30パーセント、江南10パーセントとされている。
26年の本道各港における鯣100斤の価格は表9-51の通りであった。また函館港からの北海道産鯣の輸出は表9-52の通りである。
表9-51 鯣百斤の価格 (単位:円)
港名 | 最高 | 最低 | 平均 |
小樽 函館 江差 福山 | 10,500 13,800 9,500 10,700 | 8,000 10,000 8,500 9,250 | 8,800 10,500 8,929 9,958 |
『北海道漁業志要』より
産地の1斤は160目。清国販売上の1斤は120目。また、鯣は製造の時20枚を束ねて1把とし、75把を1箇と称し100石は4000貫目で計算する。
表9-52北海道産鯣の函館港海外輸出
年 次 | 数 量 | 原 価 |
明治17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 | 斤 170,430 335,254 506,714 390,682 230,803 429,657 468,845 298,400 306,583 492,741 | 円 14,675 35,704 43,655 37,656 24,979 49,420 48,886 30,192 34,085 55,596 |
『北海道漁業志要』より
『北海道漁業志要』に掲げられたこの時期における鯣の製造手間賃の調査結果によれば、割き手間賃100枚に付1銭2厘、縄に掛ける手間賃100枚に付5厘、足結い手間賃100枚に付3厘、皺伸ばし100枚に付5厘、結束100把に付12銭、縄1把(38尋)1銭5厘、木竿(2間2尺)3銭5厘、計18銭5厘とある。
このように、鯣は輸出品として函館港に集積され、横浜および神戸商人の手を経て中国大陸に送られていた。これが輸出品であるが故に、大小の選別、形状の整否、色沢の善悪等によって価値が決まるため、製品および荷造りについては厳しい点検を必要としていた。
この間の事情について、明治24年4月、函館商工会は北海道庁長官に対する「海産物改良建議按」を取りまとめ、その中で煎海鼠、干鮑と並んで鯣について「干燥ヲ充分ニシ且ツ雨鯣ヲ混入セザルヲ要ス」とし、さらに「以上三種ハ主ニ清国ヘ輸入スベキ重要海産物ナルヲ以テ品位ノ善悪ハ直ニ貿易上ノ消長ヲ惹起スルガ故ニ内国需要ノ他ノ産物ヨリ一層ノ注意ヲ要スルコトナルニモ拘ハラズ目前ノ小利ニ眩惑シテ互ヒニ競売買スル風アルガ故ニ自然充分ノ製造ヲ為スニ逞アラズ、随テ収穫スレバ随テ発売シ遂ニ品位ノ良否是レ関スセザルガ如キ悪弊ヲ生ジ来レリ、是等ハ生産人及ビ取扱人ヘ相当ノ検束法ヲ設ケ矯正スルニアラザレバ貴重ノ輸出品モ其声価ヲ失墜シ終ニハ販路ヲ壅塞スルニ至ベシ」と述べている(『函館商工会沿革誌』)。
そして、明治27年4月、北海道庁出張員農商務課属の同業組合に関する諮問に対する商工会の回答では「本道産ト他府県トヲ問ハズ凡ソ重要物産ニ関スル商業者ニ適用スルヲ可トス」と述べ、その理由として函館は本道における必需品の集散地であり、「当時商人ニ於テ其商品ノ良否ニ注意シ苟モ本道各地ノ為ニ不利ヲ被ルべキ事項ヲ発見スル時ハ組合ノ団体ニ於テ直ニ各府県産地ヘ改良ヲ促スノ必要アリ」、また「本道各地ヨリ各府県ヘ輸出スル海産物ニ関スル営業上組合ノ必要ハ産地粗製濫造ノ弊ヲ防ギ各需要地ニ於テ本道物産ノ声価ヲ落トサザル様常ニ改良ヲ謀ルニ功アリ」とされている(前掲書)。この時期における同業組合の設立は、在来産業の生産・流通上の整備という一般的なものから「輸出振興」を目的としたものに変化していることが指摘されている(竹内庵「同業組合の歴史的位置」神木哲男他編『近代移行期における経済発展』)。とくに、明治30年の重要輸出品同業組合法の制定はその端的な表現とされている。
函館区鯣製造組合は、明治20年9月に「生産者を保護し勉めて佳良の物品を製造し以て全業者の幸福を増進せしむる」ことを目的に設立された。これは明治20年5月に制定された北海道庁令に基づく水産物営業人組合および同規則によるものと思われるが、他方北海道庁を置くのに伴って20年3月に公布した北海道水産税則により現品税を全廃して金納となし、また本道水産物の営業者による組合を設けその産出高価格の100分の5を以て組合1か年の税額として各営業人の負担としたことに対応したものであろう。この点に関しては、以下の明治28年5月8日に北海道長官宛に提出された「函館区鯣製造組合規約加除訂正願ニ対スル説明書」(『漁業組合書類』)からも読み取ることができる。
当組合ハ他ノ漁業組合等ト異リ、鯣製造業ノ一種類ナル単純ノ組合ナルカ故、一名トシテ水産税ヲ負担セサルモノ無之、而シテ水産税ノ賦課法ハ各自ノ干場ニ使用スル掛縄、則チ細木ヲ建テ八段乃至拾段ニ縄ヲ張リ、之レニ生烏賊ヲ掛ケテ干燥スルカ故、此縄ノ延長九丈六尺ヲ壱坪ト定メ、之レカ坪数ニ応ジ賦課スルモノニシテ、初メ此届出ヲナサシメ賦課額ヲ定メ、其后漁期ニ至リ実際ノ調査スルトキハ往々届出以外ニ使用シ、畢竟如斯逋税センコトヲ企ルハ僅少ノ人員ニシテ、参千拾余円ト云フ多額ノ税金ヲ負担シ、一人ニテ多キハ四拾円乃至八拾円、少ナキモ五円乃至拾円ニ当リ、実際税金ノ重キニヨルトハ乍申、右等ノ奸策ハ直接ニ間接ニ正業者ノ妨害トナルコト少ナカラス、是等ノ事ハ総テ水産税ニ関スルコト故、水産物営業人組合納税委員ニ於テ之レカ取締ヲナスコト当然ナルコトニシテ、是迄ハ納税事務所ヨリ巡視人ナルモノヲ派出シ、取締ニ従事セシメ来レトモ、右届出以外ノモノニ付テハ、二十年勅令第六号、二十一年庁令第拾八号ニ逋税ニ係ル条項無之タメ、水産物営業人組合会決議ヲ以テ定メタルト雖トモ、制裁ヲ加フルコト能サルカ故、竊ニ逋税センコトヲ企テ、偶々発見セラルルニ及テ、初メテ納税ノ手続ヲナシ、是等ハ尚恕スルトスルモ、中ニハ現ニ逋税シ居ルヲ発見セラレナカラ、事ヲ左右ニ託シ納税ノ手続ヲセス、此輩ニ対シテ告発セントスルモ、右勅令第六号及庁令第拾八号ニハ是等ニ対スル条項無之ニ付、賦課法ヲ改メ人頭ニ課税センニハ前陳ノ通リ営業ノ大小甚敷差違有之、又土地ニ賦課セントスレトモ当地ハ本道内各地ト異リ純然タル海産干場無之、宅地畑地或ハ屋上等ニ干場ヲ仮設シ、宅地ト雖トモ多クハ借地ニシテ、又営業者並ニ干場ノ異動スルコト尤モ甚敷、右等ノ事情ニヨリ何分ニモ取締上困難仕、随テ正業者ヲ害スルコト不少、今ニ於テ之レカ取締ノ法ヲ厳重ニセサレハ、竟ニ正業者ヲ保護スルノ道ヲ失シヘクニ付、止ヲ得ス当組合ノ規約ニ干場ノ制限ヲ置キ罰則ヲ設ケタル義ニ有之候也 |
そして、この組合は組合員の製造過程を巡回・監視すると共に、21年3月に制定された北海道水産物取締規則およびそれを引き継いだ30年11月に庁令として公布された北海道漁業取締規則に基づき製品の品質管理が図られたのである。