第2期は前項で述べたように、ロシアの圧迫で倒産者が生じ、17年の漁獲高は9年と同じく3000石となった。そして、18年の漁場主は僅か6名に減少した。しかも16年から松方デフレの影響もあって、漁価は下落し、15年の価格水準に回復したのは20年代の半ば過ぎからであった。その間、24年には未曽有の大薄漁があった。10月4日の「北海」には、「二、三の漁業者の外はすべて収獲鮭鱒買附約定主へ対し先きに受取りたる売附代金償還不足の為め漁場許可状を抵当に渡し明二十五年度漁業収益を以て本年の負債を償ふの約定を為し…」とあるが、同年の領事館報告には「元来漁業タルヤ三ヵ年乃至四ヵ年間ヲ見込ミ資本ヲ投ジ其ノ利益ヲ修ムルモノナレバ 其ノ間一回ノ不漁ハ固ヨリ免ルベカラザルモノナリト聞ク」と書かれている。
17、8年に第1期出漁の漁場主の脱落がみられたが、19年からは新規出漁者(笹野栄吉、石川卯之松、有田清五郎、林寅吉)が漁場主に加わってゆく。また、西海岸では明治10年代よりロシア商人セミヨーノフ(Семёнов)が伊達・栖原の建物を使用して、昆布を採取し(中国人および朝鮮人を雇用)清国の芝罘(チーフー)へ輸送・販売していたが、23年から日本漁民と合併で鰊漁業、鱒漁業を開始する。鰊締粕は神戸へ、塩切鱒は函館へ搬送するが、翌24年とその数量は次第に増加した。25年には、4、5名の日本人営業主がロシア・イギリス合併商(ロシア商人セミヨーノフとイギリス商人デンビーの合併)の仕込を受け、日本人漁夫200余名を雇用して鰊漁と締粕の製造をするが、その販売額は7万円余におよんだ。翌26年も同様に、日本人がデンビー商会と合併で収穫した鰊締粕は1万石となり、日本人に許可されている東海岸やアニワ湾の鰊締粕に倍する数量となった。もっとも日本人許可漁区でも鰊締粕の産出額はこの頃から急増し、29年には1万石をこえて鮭の数量と肩を並べるに至る。殊に29年から日本人に許可された西海岸の鰊漁業は30年には本格化し、一方鮭・鱒相場の騰貴もあって、樺太漁業の発展は目覚しいものとなった。領事館報告および、その漁況概報でこの間の消息をみよう。27年には「本島西海岸ヲ除キ金二十四万余円ノ収獲アリシハ本館創立以来ノ盛漁ナリキ」、「本年ハ鱒漁未曽有ニシテ漁場到ル処豊漁ナラサルハナシ…」、28年には「西海岸ヲ除キ金三十三万余円ノ収獲ヲ得タリ 昨年ハ本館創立以来ノ盛漁ナリト報ジタルモ本年コソハ大漁ヲ特筆スベク 随テ漁業者ノ潤益モ巨大ナリト謂ツベシ」、29年には「遠洋漁業企画熱ノ波及カ若シクハ北海道沿岸ノ漁業連年薄漁打続キ本島ハ之ニ反対ナルガ為メカ、今年ヨリ頓ニ当島ノ漁業発達ヲ来シ、出稼漁夫ト網数ノ増加シタルトニ因リ五十八万有余円ノ金額ヲ収ムルニ至レリ」、「鮭ハ近来稀ナル大漁ニシテ「テルペニエ湾」内「ホロナイ河」ノ付近ハ最モ多ク、塩ノ欠乏ヲ来シ「ナヨロ」近傍ハ網一カ投平均イヅレモ七百石捕獲セリ…」、30年には「本島ノ漁業著シク発達シ、年一年漁業者増加シ、露人(デンビー商会、ビリチ)ニ道具ヲ授ケ魚類オヨビ締粕ヲ得タルモノヲ併算セバ、実ニ金八十有余万円ヲ本邦ニ輸入セリ」「「テルペニエ湾」内ハ非常ノ豊漁各漁場共塩ノ欠乏ヲ来セリ…」と記載されている。