カムチャツカ出漁の始まり

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 明治期における日本人漁業者の露領極東沿岸への進出は、前述のように、サガレン島(樺太)が最も早く、当時の露領漁業問題は、まずサガレン島を中心に展開するが、同島が樺太千島交換条約によりロシア領土に編入された後においても日本人漁業者の操業が認められていたのに対し、次いで進出した黒龍江、沿海州地方やカムチャツカ半島は、ロシア本来の領土であり、ロシアの日本人出漁者に対する対応も大きく異なるものがあった。特にカムチャツカ半島では、当初よりロシア人漁業者のみに操業が認められ、日本人漁業者のカムチャツカへの進出は特異な経過を辿ることになった。
 まず、日本人が最初にカムチャツカに足跡を残したのは、明治27年、千島列島の北端幌延(ポロムシリ)島を根拠にカムチャツカ半島に渡航した郡司大尉一行であるという。一行は西海岸南部のオゼルナヤ付近でサケ・マスの漁獲を試みている。また、明治8年の樺太千島交換条約には「日本船及ビ商人通商航海ノ為オホツク海諸港及ビ堪察加(カムチャツカ)ノ海港ニ来リ又ハ其海及海岸ニ沿ッテ漁業ヲ営ム等渾テ露西亜(ロシア)最懇親ノ国民同様ナル権利及ビ特典ヲ得ルコト」とあり条約締結以前にすでにこの方面に出漁していたことが窺われる。
 だが、実際日本人がカムチャツカで漁業に従事するようになったのは、明治29年露国オットセイ会社に雇用された日本人漁夫が同地に渡った時とされている(『日露漁業沿革史』)。
 同社の事業は、元々、コマンドルスキー諸島、カムチャツカ半島周辺海域のラッコ、オットセイ猟業、およびサガレン、黒龍江以北の海運、物資の販売業であったが、主業とした海獣猟業が不振で、その挽回策として、明治28年、ウスチカムチャツカにおいてサケのボーチカ漬けの製造を始めることになり、同年に約200樽のボーチカ漬けを生産した。だが製法が不十分で販路も狭く事業は失敗に終わった。
 しかし、日本向け塩蔵魚の生産が有望であることに着目し、翌29年、サガレン島のロシア人漁業家セミョーノフ、デンビーらと合同して、塩蔵鮭鱒の生産を開始することになり、同年5月、函館から鮭鱒の漁撈とその塩蔵加工に習熟した漁夫46人を雇入れ、同社のカムチャツカ漁場に送り込んでいる。そして、同年9月、日本人漁夫の送還時に塩蔵鮭鱒7000尾を函館に運び販売している。これは、カムチャツカ産のサケ・マスが日本に輸入された最初の記録であるという。
 以後同社は、先のウスチカムチャツカ漁場の外、更にオゼルナイ河とアワチヤ湾に漁場を開いたが、明治32年には26か所の漁場を貸り受け、33年には、サケ1万8100石(10万8600尾)、マス4600石(7万3600尾)を漁獲し、約1万9700石の塩サケ・マスを日本に輸出している。この大部分は函館に陸揚げされたものとみられる。また、このような塩蔵サケ・マス生産のため、雇用される日本人漁夫の数も年々増加しているが、明治29年の46人が、以後132人、116人、207人、そして33年には637人に達している。これらの漁夫も函館において募集されたものであろう。
 ところで、同社の営業成績であるが、前述のように漁獲製造面では相当の実績をあげたが、日本人漁夫の雇用経費(賃金、渡航費、食費など)や漁船費、漁網、食塩などの資材費が嵩み収益面では期待された成績をあげ得なかったようである。これに加えて、明治32年に公布された沿黒龍江総督府管内漁業仮規則には、沿海州北区(カムチャツカ半島を含む)においては「漁夫トシテ必ズ露国人ヲ使用セザルベカラズ」との規定が設けられ、日本人漁夫の雇用が全く不可能になり、明治34年以後、日本向け塩蔵魚の生産を中止せざるを得なくなった。
 かくして、日本人漁夫のロシア漁業会社のカムチャツカ漁場への出稼ぎは中止を余儀なくされたが、この間、同地に出稼ぎした日本人漁夫の現地の情報や、カムチャツカ産のサケ・マスが多量に輸入されたことなどから、同地のサケ・マス資源が極めて豊富なことが知られるようになり、ロシア当局の目を逃れ、危険を犯してカムチャツカに出漁する者が多くなった。
 当時のこの地方の状況は、「河川港湾及海面ニ於イテハ露国官憲ノ漁業監視、未ダコノ地方ニ及バザリシヲ以テ、彼等出漁者ハ殆ンド無人ノ境ヲ行クガ如クナルヲ得、又魚族ハ群ヲナシテ其ノ取捨ニ苦シムノ状況ナリシヲ以テ、其ノ得ント欲スル所ノモノハ、一トシテ能ハザルナク、隅々無知無力ナル土人ノ障害ナキニ非リシモ、巧ニ操縦篭絡シテ之ヲ斥ケ、以テ各自ノ漁業利益ヲ恣ニスルコトヲ得タリ」といわれる状態で、この時期のカムチャツカ地方にはロシア当局の威令はほとんど及んでいなかったのである。こうして、この時期の日本人によるカムチャツカへの出漁者は、「露国人漁場ノ漁夫トシテ渡島シタルモノノ外、他方郡司大尉ノ出漁ヲ初メトシ、其ノ後我ガ漁業者ガ専ラ密漁ヲ主目的トシテ、活躍シタル」いわば密漁者ともいうべきであり、このような状態は明治31年頃まで続いたという(『露領漁業沿革史』)。