10年前後になると公立の小学校の開校が相次いだが、その一方で、民間の人たちの醵金や個人経営による私立小学校も開校した。個人では、伝習所の私費生徒森梅五郎が伝習所を中途退学して10年6月内澗町の自宅に愛陶舎を開業、会所学校と同一の教則により下等小学の教科のみを教授した(明治10年「取裁録」道文蔵)。下等小学のみとはいえ、小学課程を教授した私立小学校としては初めての学校だった。
また普通小学校とはいえないが、日中就学できない壮年の男子に変則の小学課程を教授する夜学校の開校も盛んだった。渋田利右衛門・工藤弥兵衛・杉野源次郎の3名が世話人となって、11年1月弁天町55に開校した弁天夜学校もその1つで、提出された校則(明治10年「願伺届録」道文蔵)によると、同校は「有志輩ノ醵金ニ依テ小学ノ教ヲ受ケスシテ成長セシ者或ハ昼間学ブニ暇ナキ者」のために開設するもので、「専ラ上下等小学ニ傚フ」が、生徒の多くは「壮年ノ者」なので「速成ヲ要スル」ため多少は異なる。また校費は有志の寄付によって賄われ無月謝だった。ほかに『開拓使事業報告』(第4編)によれば布告書や新聞などの会読会から発展し、今井市右衛門ほか6名の世話人が11年1月内澗学校を借りて開設した金蘭学校、藤山正兵衛ほか5名の世話人が同年4月地蔵町の事務扱所を借り開設した行余学校、畑野仁平治・山本鉄次郎・松岡房吉・工藤嘉七・菊地嘉六らが世話人となり翌12年4月地蔵町扱所内に開設した淳風学校(4月16日付「函新」)、それに広田丈吉ほか2名の世話人が女子を対象に開設した松涛学校などがあり、これらはすべて有志の醵金によるものだった。なお開拓使も12年1月「公立夜学校開設仮規則」を定め、昼間職に従事し就学の暇の無い11歳以上の男子のみを対象に公立夜学校の開校を奨励している。