表10-7 明治6年の私塾・寺子屋
経営者名 | 流 派 | 寺 子 数 | 住 所 |
若山藤兵衛 佐々木作右衛門 十津川五仙 高松孝太郎 菊地重豫 沼口山民 小原里得 坂井才八郎 冨原九一郎 森菊三郎 門田正松 野口貞翁 菅浦弥兵衛 斎藤寛平 | 御家流 大橋流 御家流 擬菱湖筆意 山民流 唐用流 御家流 長尾流 猿山流 長尾流 講口流 青蓮院流 長尾流 | 198(134,64) 26(21,5) 120(83,37) 40(31,9) 36(27,9) 21(14,7) 4(3,1) 20(17,3) 156(89,67) 161(98,63) 26(14,12) 33(28,5) 20(20,0) 3(1,2) | 茶屋町45 鍛冶町16 花谷町105 下大工町47 会所町93 南新町42 南新町142 尻沢辺町137 大黒町20 内澗町25 蓬莱町96 一本木町110 音羽町17 恵比須町126 |
計14軒 | 864(580,284) |
明治6年「市中請願伺届留」より作成
寺子数の( )内は男・女の内訳
12年の大火後から15年の公立小学校再興までの中断期間に子供たちを受け入れたのが、個人経営で再興が早かった私塾・寺子屋やキリスト教系の教育施設だった。函館の私塾・寺子屋は、幕末から継続したものや明治になってから始まったものなどがあり、明治6年7月現在の調査(表10-7参照)で14人の手習い師匠とそこに通う864四名の子供の数が確認されている。これらの私塾・寺子屋も、「学生」に準じて教育行政を進めることになった8年以降は、必ず小学教科に従って教授し、新設の際にはその塾則・教則などを地方庁へ届け出て許可を得ることが義務付けられる(明治8年「函館支庁日誌」道文蔵)など、徐々に「学制」の画一された小学校へと変更するように指導されていった。
さらに12年の大火後の再興まもない14年4月には、これらの私塾・寺子屋を一掃する「私学開業規則」(『布類』)が布達され、既存の私塾・寺子屋経営者はいったん廃業の上、この規則に基づき新たに私学開業を願い出ることになった(明治14年「取裁録」道文蔵)。同規則によると、私立小学校を開設し学齢児童に教授する者は「必当庁小学教則ノ旨趣ニ基キ少クモ読書・作文・習字・算術・修身ノ五科」を備え、「公立小学校同様定期試験ヲ行ヘキハ勿論…当庁ノ監督ヲ受ル事公立学校同様」とし、「学事関渉職員ノ巡視ヲ拒ム能ハサハ勿論、学事関渉ノ事件調査ヲ命スルトキハ必違背ス可ラス」と、公立小学校に準じて経営され、公立同様に函館支庁の監督を受けることが義務付けられた。これは12年の文部省達第8号「町村人民ノ公益タルヘキ私立小学校ハ、児童ノ就学ニ便シ学期等公立小学校ト同様ニシテ、学科課程等都テ其町村人民ニ於テ公益トナシ、而テ府知事県令ニ於テ公益ト認メタルモノト可心得」(『明治以降教育制度発達史』第2巻)に基づいたものと思われるが、この「私学開業規則」の条件を満たしえない経営者は、廃業せざる得なかったのである。
大火後の学校不足のために子供たちを受け入れてくれる学校が不足していた函館では、親たちも学校が新築されるまで私塾・寺子屋の継続経営を希望したため、14年8月、若山保平(鍛冶町50)・福田久作(西川町14)・十津川五山(花谷町104)・浅井庄八(相生町193)・辻信蔵(汐見町15)・富原九一郎(大黒町9)の6名の私塾経営者から「私塾廃業延期願」が提出された(明治14年「願伺届録」道文蔵)。しかし函館支庁は、既に福山・江差地方では私塾をやめさせており、管内一般の取り締まりが出来なくなるので絶対認められないと却下(明治14年「取裁録」道文蔵)、これらの私塾は翌9月全て廃業となった。
大火後丸1年半たっても公立学校が再興しないため、廃業した私塾の経営者の中には「私学開業規則」に基づき私立学校を開設し、通っていた子供たちを継続して収容する者も現れた。14年前後の私塾と私立学校への変更関係を表したのが図10-3である。10軒の私塾中、7軒の私塾が私立学校へとかわっている。その他にも私立学校として開校した森学校・沢学校や被災しなかった鶴岡学校(第2節3参照)を合わせると15年で実に10校の私立小学校が区内に存立したことになる。
図10-3 市立小学校へと変更した私塾
『日本教育史資料』、明治14年6月「開拓使函館区役所一覧概表」『函館市史』史料編2、明治14年「願伺届録」・明治14年「学校設立伺留」(北海道立文書館蔵)より
さらにこのほか、「無学ニ陥ルニ忍ヒズシテ外人ノ手[魯西亜館百名、仏蘭西館三十名]ニ委スルモノ」(明治14年「区会議事録」)も少なくなかった。〝魯西亜館″とは、ハリストス正教会の経営する正教学校のことで、これは6年に教会敷地内に開校し普通小学校を教授していた。また〝仏蘭西館″とあるのは、カトリック教会が開設していた施設で、聖保祿女学校の前身である仏蘭西女学校のことと思われる(函館白百合学園『百周年記念誌』)。キリスト教各派が北海道布教の拠点としていた函館では、教育という事業を布教の手段として考えている教会側にとってはもちろん、信者ではない一般区民にとっても、キリスト教系のこのような教育施設は重要な存在であった。
まさに公立小学校再開までの函館の教育を維持したのはこれらの私立小学校だった。しかし15年4月開校の弥生学校をはじめとして公立小学校の開校が続くようになると、通学児童数は停滞し、私塾から代わった私立小学校の中には経営難になる物も現れ、大火後急増した函館の私立小学校は、函館県時代の後半にほぼ淘汰されていったのである。