函館訓盲院

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 明治期の障害児教育はほとんど顧みられない分野ではあったが、盲・聾児の教育に関しては、4年に工学頭山尾庸三(幕末の諸術調所の卒業生)がイギリスでの見聞に基づき盲・聾2学校の創設を太政官に建白するなど早くから関心が示されていた。12年には京都府立盲唖院が開設し、18年には、イギリス人宣教師の発意で民間の慈善事業として始まった楽善会盲唖院が文部省直轄の東京盲唖学校となるなど、官・公立の盲唖学校が開設し始めたため、文部省はこの種の学校の設立・廃止を規定することになり、23年の第2次「小学校令」の中にはじめて「市町村ハ幼稚園書籍館盲唖学校其他小学校ニ類スル各種学校ヲ設置スルコトヲ得」るとしたのをはじめ、小学校に類する学校として数か条にわたって盲唖学校が規定され、法規上の準則をもった。しかし実質的な盲・聾教育の整備拡充が始まるのは30年代後半以降であり、盲・聾教育が独立の法規となるのはさらに遅れて大正12(1923)年の「盲学校及聾唖学校令」がはじめだった。結局大正期に入るまで国や公的機関による盲・聾教育への本格的な取り組みはみられず、それまではやはり融資や宗教関係の団体の慈善事業に頼らざるえなかったのである。
 函館ではまず盲教育から始まった。28年来函したメソジスト教会の宣教師ドレーパー氏の母C・Pドレーパー(Draper,Charlotte Pinckney)夫人が、青柳町に借家を求め貧しい盲人の子どもたちを集めて養育する訓盲会を開くことを提唱したのに始まる。C・Pドレーパー夫人はすでに、22年に横浜訓盲院の前身である盲人の保護教育機関盲人福祉会をつくって活動しており、函館でもその事業を続けたのである。函館の訓盲会の会長にはドレーパー宣教師の夫人ヘィブン(Haven,Maira Enid)が就任した(篠崎平和『マイラ・エニード・ヘブン・ドレパー先生小伝』、北海道函館盲学校『沿革史』)。
 C・Pドレーパー夫人は32年函館で死去、ドレーパー宣教師夫妻も函館から転任したため、同会は一時アメリカ在住の匿名婦人団体の経営となるが、その後メソジスト教会の後任ワドマン(J.W.Wadman)宣教師夫人が会長を引き継ぎ、34年には函館訓盲院と改称してワドマン夫人が院長に就任した。37年のワドマン夫妻の帰国後は、訓盲会の卒業生でありキリスト教の信者である篠崎清次へ引き継がれた。なお匿名婦人団体の函館での窓口となり、会の運営や子どもたちの養育・教育にあたり、会長不在の数年間の訓盲会の発展を助けたのは、当時の遺愛女学校の校長だったミス・デカルソン(Miss Augusta Dickerson)をはじめとする遺愛女学校の教員たちであった。36年5月現在の生徒数は男8人・女5人となっている(『函館教育協会雑誌』158号)。