去秋石狩国札幌ヘ開拓神新規被為在勅祭候御儀も御坐候ニ付、出格ノ御処分を以テ(中略)当社、勅祭神社ノ部ニ御差加ノ上、御普請被成下候様、此段奉懇願候、以上 明治三庚午十一月 菊地 従五位 開拓使御中(「開公」五四八二) |
八幡坂にあった函館八幡宮 北大蔵
つまり、札幌神社が開拓神として勅祭されるなら、伝統ある函館八幡宮が勅祭されるのは当然のことである、という具合に。
函館八幡神がこのように、「箱館惣社」=「蝦夷地惣鎮守」の自覚をもって、札幌神社と同じように勅祭扱いを主張している点に思いを致すなら、寺院の世界においてもそうであったように、明治初年に函館八幡宮がライバル視する相手はすでに松前の神明宮でもなければ八幡宮でもなく、それは開拓使と不即不離の関係にある札幌神社であった。
それならば、開拓使自体、この明治3~4年の頃、神社間の明確なヒエラルキーを政治レベルで持っていたかといえば、決してそうではなかった。
明治4年12月のことであるが、開拓使は神祇省に対して、「函館ハ神奈川・神戸・長崎・新潟等と同じく一県ノ体裁なり、県名無之と雖も管内最信仰ノ社を以て県社ニ唱可然哉」(「開公」5712)というように、函館の神社=県社と見なしてはどうかと伺うほど、社格問題については摸索の状況下にあった。
こうした開拓使においてすら、確かなる社格のイメージを結びえず、函館の神社=県社などと右往左往しているのであるから、当の函館八幡宮などが「箱館惣社」=「蝦夷地鎮守」という古層の伝統意識をふりかざしながら、札幌神社と同等の扱い、否、それ以上の待遇を要求することは、いとも当然のことであった。開拓使という外なる環境までもが、函館八幡宮の古層意識を増幅していたのである。
神社間の序列である社格問題は、じつは函館八幡宮と札幌神社との間のみに惹起したのではなかった。もっとも身近かな、函館の内部においても確かに存在していた。