蓬莱町に新しい遊里が出現したころ、横浜で起きたマリア・ルーズ号事件が起因して、明治5(1872)年10月、政府は抱え主との間の金銭貸借を一切無効として全国の芸妓・娼妓(遊女)などの年季奉公人の解放を命じる太政官布告第295号を布告した。まさに豊臣秀吉が京都に遊里を許可したのに始まり、江戸の吉原遊郭の開設で確立されたといわれている我が国の遊郭、公娼制度の崩壊である。この「解放令」はどのような背景のもとに布告されたのだろうか。
「解放令」布告の原因となったマリア・ルーズ号事件は、5年6月、中国からの帰国途中で損傷し、横浜港外に停泊したペルー船マリア・ルーズ号から1人の中国人が脱走し、イギリス軍艦に救助を求めたことから始まった。彼は賃金労働者という契約で船に乗ったが実際は奴隷としてペルーで売られるのだと訴え、その事実を確かめたイギリス代理公使ワットソンは、外務卿副島種臣へマリア・ルーズ号の船長を糾明するようにとの書簡をあてた。政府は、神奈川県権令大江卓を特命裁判長にし外務省管下の裁判として対応したが、この裁判の中で、政府は大変な汚点を思わぬところから指摘されたのである。奴隷契約の約定書そのもが適法か否かを問う裁判の中で、マリア・ルーズ号側の弁護士ディッキンズは「奴隷契約は無効だというが、日本ではそれ以上にもっと酷い奴隷契約が実際有効に認められているではないか」と、遊女の契約の実情を指摘した(『日本婦人問題資料集成』第1巻、牧英正『人身売買』)。アメリカとの条約改正が失敗に終わり、最低欧米並の法体制が確立していることが条約改正の条件であるとされていた政府にとっては、日本国内で奴隷契約が行われているというこの指摘は大変な痛手であった。
とりあえずこの裁判は、1国が適法としても1国が禁ずる時はその契約は無効とするのが万国法であり、遊女に関しては国内限りの制度であって、その制度が存在する我が国でも奴隷の輸出入は厳禁しているとして、5年8月「契約は無効」という判決を下して終結、200余名の中国人たちは翌9月無事本国に引き渡された。その後ペルーが抗議を申し込んだが、ロシア皇帝仲裁裁判により8年5月「日本政府は責に任するの理なし」として決着した。しかしこの事件中のディッキンズの指摘は以後へ大きな波紋を投じることとなった。