印刷所北溟社の誕生

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 以前函館支庁が将来の見通しがないとして黒田らの新聞の発刊に資金貸与をしなかったように、実は函館の有力者たちも鋳之助らがやっている印刷事業に対しては、目前に利益の見えない不安な事業だけにいまひとつ賛同しきれずにいた。それが戸長から示されたこの青江の提案が切っ掛けとなって彼らの気持ちに踏ん切りがつき、″どうせ赤字を覚悟するのなら地元に印刷所を開き、地元で新聞を発刊しよう″ということにまとまったのである。彼らは函館活版舎を基礎に本格的な印刷所を創設するため2か年の予定で1株10円で200株、総額2000円の資金を徴収することにして株主を募集した。以下その時有志らへ回された同意書である。
 
維新已来政令日々月々革リ懇告深諭一日ハ一日ヨリ多ク、皆是人民ノ保護ニ出テ朝恩隆渥ノ賜ナリ、然レトモ市民私業多事ノ際、毎戸騰写ニ暇ナク、徒ラニ看過シ、意義解通セス、知ラス覚ヘズ施政上ノ要旨ヲ悖リ、不測ノ法網ニ陥ルノ徒ナキモ難斗、此弊ヤ御布令書ノ領布周ク不行渉ヨリ生スルナリ、因テ今爰ニ活版所ヲ開設シ、印行ヲ盛ンニシ、次テ新聞誌ヲ発行セバ、人民解通シテ戸ニ陋俗ノ徒ナク、座シテ生国ノ景況諸品物ノ多寡価格ノ高低海外万里ノ事情ヲ熟知シ、直接ノ利益現ハレサルモ間接ノ洪益万々ナリ、此ノ洪益ヲ興スヤ地方人民ノ義務ニアルハ諸君ノ知ル所ナリ、夫レ当港ハ北海全道ノ首頚殊ニ三府五港ノ内ニ在レバ、地方人民ニ於テモ其名分丈ノ義務ヲ尽サヾルヲ得ズ、因テ此度有志ノ輩協議同熟議シテ、資本金徴収、株主二百員ヲ募リ、一株十円トシ満二ヶ年ヲ以テ金二千円ノ資本ヲ徴収シ、下条ニ掲載スル概算ノ目的ヲ以テ活版所ヲ新設セントス、冀ク諸君下条ノ社則及ヒ既算書ヲ熟読通知シテ、直接ノ利ヲ不顧間接ノ洪益ヲ最ト倶ニ永世ニ謀リ株主入社タラン事ヲ、依之同意ノ方ハ貴名ノ下タニ捺印ヲ企望ス
明治九年                   戸長  白鳥衡平               
同   井口嘉八郎            
(前掲「諸願届書」)

 
 「捺印ヲ企望」されたのは次の人たちだった。皆この時代の市中の有力人物である。なお明治12年度「函館商況」(『函館市史』史料編2)には″株主数十六名″となっているが具体的な名前は不明でる。
 
杉浦嘉七、常野与兵衛、魁文社、佐野専左衛門、藤野喜兵衛、渡辺熊四郎、今井市右衛門、浜時蔵、杉野源次郎、平田文右衛門、安浪治郎吉、渋田利右衛門、牧田藤五郎、大野六兵衛、林宇之吉、木下忠右衛門、泉藤兵衛、佐野孫右衛門国領平七、村田駒吉、大針喜兵衛、中川嘉兵衛、中野善兵衛、林儀助、田本研造、池田直二、浅田清次郎、山崎清吉、新栄幸平、大矢佐市、伊藤鋳之助

 
 資金収集の目途もついた翌10年3月10日、戸長の井口嘉八郎をはじめ、杉浦嘉七、常野与兵衛、渡辺熊四郎、泉藤兵衛、大矢佐市、伊藤鋳之助が株主惣代となり、内澗町1番地魁文社内に新聞発刊を目的とした印刷所「北溟社」を開設し、13日より営業を開始したい旨の願書が提出された。こうして鋳之助と佐市の小さな印刷所「函館活版舎」は、渡辺熊四郎を社長に区中の有力者を株主とした資本金2000円の本格的印刷所「北溟社」へと生まれかわり、新聞発刊をめざして事業の第一歩を踏み出したのである。
 一方函館の人々に断られた青江は、帰京後東京出張所へ再び申し立てをした。東京からこの件の問い合わせを受けた函館支庁の責任者である杉浦3等出仕は、「至当ノ義ニ付小官ニ於テモ同意ニ有之候」(前掲「准刻書類」)と函館の人々による地元新聞の発刊に賛同している。なお青森では青江の提案時期には既に「北斗新聞」(8年創刊、12年廃刊)が発刊されていたが、12年に青森新聞社から「青森新聞」が発刊されるまで他に新聞発刊の動きは無かったようである。なおこの青森新聞社の元が青森日新堂という印刷所ということなので、青江が青森に開設した印刷所はその後も青森で利用されていたようである(『青森市史』)。