開拓使函館支庁は明治10年9月、鳥獣虫魚木土石などで普段見慣れない形状のものを採取捕獲した場合には、相応の値段で買い上げるので、品物を損傷しないように注意して早速届け出るようにと広告した(明治10年「本使御布達」)。また翌11年、
谷地頭に造成中の公園地内に「人民の知識を開くに肝心なる博物館」(明治11年1月17日付「函新」)の設置が計画され、3月19日、函館支庁から東京出張所へ宛て仮博物場新設の伺書が提出された。それによると、管内より産出する物産を初め国内における天然自然の物産と人工の製造品とを収集し、一般の人民に縦覧させれば開拓の進歩を助長し人民の知識を広めることになり、そのうえ、内外の博覧会への出品に備えることにもなり、さらに、函館のように「内外の人民輻輳の地」においては至急設置の必要がある施設であると述べている。これに対し審査の結果、翌4月、北海道の産物を人民に展覧させることは有益なことであり、場所も公園の中に設置することになれば見学者にとっても便利であるという見解を示して、仮博物場の建築が許可されたのである(「開公」5880)。
函館仮博物場 手前に見えるのが白川橋
この建物は約32坪、919円32銭の予算で6月に着工、およそ1か月を経た7月16日に落成し、営繕掛から民事課勧業掛へ引き渡された。また、陳列品寄付の勧誘公告に応じて平田兵五郎よりウラジオストック市街の写真、
ブラキストンより鳥類標本1300余点、
小林重吉より新製品の鱈の子のからすみなどを献納された記事が「函館新聞」に散見する。ちょうど仮博物場の建物が完成したころ、動物見本採集と学術研究のため東京大学理学部教授エドワード・S・
モースと矢田部良吉が来函し、しばらく滞在した。その後両教授は道内を回って帰京したが、函館在勤の柳田友卿の名で仮博物場の開場準備の段階に至り、函館で採集して東京へ持ち帰った標本を各1種ずつ寄贈の依頼と共に場内の陳列台の見本、物品名札の付け方、陳列品保存の方法、その他博物場に関係の件について助言を受けたいと当時の教育博物館長でもあった矢田部教授に書状を差し出した。この依頼に対しては即刻、すべて了承した旨の返事があった(明治11年「時任権大書記官札幌出張中書類」道文蔵)。