公園の創設

1479 ~ 1480 / 1505ページ
 江戸時代から既に、いわゆる「大名庭園」の先駆けとして松平定信が白河に南湖園、徳川斉昭が水戸に偕楽園を造り一般にも解放していたのであるが、明治6年1月15日、「勝区旧跡ヲ公園ニ定ムル事」について次のような太政官布告が出された。
 
三府ヲ始、人民輻輳ノ地ニシテ、古来ノ勝区名人ノ旧跡等、是迄群集遊観ノ場所 東京ニ於テハ金龍山浅草寺、東叡山寛永寺境内ノ類、京都ニ於テハ八坂社、清水ノ境内、嵐山ノ類、総テ社寺境内除地或ハ公有地ノ類 従前高外除地ニ属セル分ハ、永ク万人偕楽ノ地トシ、公園ト可被相定ニ付、右地所ヲ択ヒ、其景況巨細取調、図面相添大蔵省へ可伺出事
(「太政官日誌」『維新日誌』)

 
 この太政官布告を受けて東京では、明治6年中に寛永寺、浅草寺、増上寺境内にそれぞれ上野、浅草、芝公園が開設されたのである。函館においても「明治六年、谷地頭町ニアル官有地若干坪を相シテ公園地トナス」(明治14年『開拓使函館支庁統計概表』)とあり、その他明治7年を公園創設としている史料も多いので、やはり明治6、7年頃から「公園地」という名目で土地の手当てをしていたものと思われる。
 しかし、明治7年の「開拓使公文録」(5795・道文蔵)には「函館へ公園開設ノ件」について、函館の杉浦中判官から開拓使東京出張所の調所幹事等へ差し出した文書があり、それによると同年4月の時点で、函館においては公園の地所がまだ決まっていないことが記されている。さらに、地券発行により人民が地所を私有地化していく傾向が著しいので、このままの状態を放置しておいては、公園地とすべき適当な場所もなくなることを憂い、谷地頭にある官有地の御用畑(幕末頃から松、杉等の苗木を栽培していた場所で、面積は約8500坪)と、その周囲の平坦な地を「公園地」に定めてもらいたい意向を伝えている。ところが、実際問題として御用畑周辺の私有地買上代金その他の諸入費は「民費を以て」充当することになると、当時はまだ一般住民の公園に対するイメージが明確ではなく、また、費用調達の方法も覚束ない状態であった。そこで、とりあえず公園予定地へ標柱を立てたり、懲役場の囚人を使って植樹、清掃などをして風致地区としての体裁を整えておいたというのが実態であったらしい。また、当時の函館駐在英国領事ユースデン夫妻と懇意に交際していた商人渡辺熊四郎は、ユースデンから「病院は病人に必要、公園は健康体の養生所」であるという公園の効用を度々説得されていたので、公園設立費として金1000円を寄付し、率先して公園開設運動に尽力することになったという(『初代渡辺孝平伝』)。
 公園開設のきっかけとなった明治6年の大政官布告に次いで、7年には、「府県及各港輻輳ノ地ニ於テハ、人民優遊ノ為公園取設候義ハ中外普通ノ儀ニテ、人民愛護ノ主意ニ候事ト存候」(「開公」5795)と布達されたが、函館の場合は前年の太政官布告にいう一般に開放できる名所旧跡や広大な面積を所有する寺社境内が存在しない土地柄なので、御用畑を基礎として住民の賛同を得て官民が一致協力しながら、公園を新設しなければならない状態にあったのである。