公園造成の具体化

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 明治11年になってようやく公園改築の気運が盛り上がり、個人からも金銭、土地、樹木を寄付する申し入れが相次ぎ、いよいよ計画も具体化し、3月19日土工に着手することになった。工事の監督は、谷地頭で料亭を営み築庭園芸の才能もあった浅田清次郎が任命された。浅田は既に老齢に達していたものの、連日のように工事を督励し、また私財をなげうっての協力も惜しまなかった。
 開拓使勧業係の書類には、「……公園ノ義ハ各国共ニ官民協定ノモノニシテ、其費用概ネ人民ノ寄付ニ出テ、園中取締等ノ義専ラ官ノ保護ニ係ル趣ニ有之……」(「函館仮博物場並公園地書類」道文蔵)とあり、民間から公園世話掛として今井市右衛門、平田兵五郎(明治24年に文右衛門を襲名)、平塚時蔵、渡辺熊四郎、岩船峯次郎、菊池治郎右衛門、新栄幸平の7名を選んで寄付金を集めたり、有志の者には草花の栽培、手入れ等をさせ、開拓使側においても、公園整備に係わる囚人使役と出港税の中から公園改築費と当面の維持費として1560円余を支出することで協力を示した。さらに、公園内で栽培する果実、草花などを一般に販売して利益をあげ公園維持費に加える見込みも立てた。
 11年4月、公園の地所を拡張するため、隣接する民有地の買い上げがはじめられることになった。公園の正面入り口となった辺り約1200坪は所有者の小林重吉が寄付を申し出たものであるが、その他の私有地の買収時期については詳細が不明である。同年、函館在住の俳人狐山堂無外が開拓使勧業係所属の公園監守を命ぜられ、園内に庵を作って居住し、竹や梅を植え菊を栽培し、公園全般の管理に当たることになった。また、園内に築山を造成する際には、人夫賃節約のため公園世話掛の懇請により、開拓大書記官時任為基以下函館支庁の官吏達が休日に土運びの勤労奉仕をすることになった。それ以来、各町からは競って多くの人達が繰り出し、各寺院は壇家を動員し、消防組、芸娼妓達も出動し、近在の亀田村、鍛冶村、神山村、下湯川村にいたるまで「土持人足」を大勢差し出して住民が公園に寄せる関心も次第に高まっていった。このように、活発な住民参加によって造成されたことが函館公園の特色なのである。

公園内に築造されたすり鉢山


星形花壇 後ろに立待岬が見える