堆積層と層序

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 発掘調査した地域は、以前人骨が発見されたと考えられる貝塚の地点からである。サイベ沢遺跡には、貝層の露頭が二か所あり、がけに向って貝層が崩れている。貝塚は畑など地表に散在する場合と、層状になって地層の一部となっている場合とがある。地表に露出している貝塚も、耕作によって地中にある貝層が掘り起されて露出する例が多い。貝塚は大規模な分布を呈するものや、遺跡の一部にしかない場合など、時代や立地により、また、形態なども一定していない。貝塚が考古学的に重要な意味を有するのは、石器時代人が狩猟、漁労の生活をしていた時、どのような生活環境にあったかを物語る貴重な資料が多く残っているからである。貝塚の形成には人為的堆積と自然的堆積の場合があるが、考古学では人為的堆積を重要視する。すなわち人為的堆積の貝塚には、当時狩りや漁の対象となった動物や魚の骨が残っていたり、人骨が埋葬してあったり、骨角製の道具などが埋蔵されていることが多いからである。貝の種類によって海岸が砂浜であったか岩礁(しょう)地帯であったか、また、それらの貝が暖流性か寒流性かによって当時の水温や気温まで推定できる。
 第一地点は、貝層ががけと共に崩れて上層部に一部しか残されていなかった。この一帯を発掘するとなれば、掘った土が沢に崩れ落ちて水田や川を埋めてしまうため、がけに近い台地に発掘区域を設定した。この地点の東側は亜炭の採掘地で、洪積世のローム粘土層、段丘砂礫層の下部に亜炭層があり、沢には自然に川が浸食して亜炭が流出していた。第一地点の地層は、地表から一・五メートル程黒褐色層があり、三・七メートルに達した面で二〇センチメートルの厚さに貝層が露出していた。
 台地上から発掘すると二五層の土層堆積があり、全体の厚さは約五メートルに達し、その間に二二の文化層が確認できた。発掘区域は沢に沿って東西一五メートル、南北五メートルの範囲に設けられた。層序は次ページの図のようになっている。表に示したようにこれほど厚い堆積層が段丘の上に見られることは極めて珍しい。自然堆積の場合、洪積世の段丘砂礫層上に黄褐色のローム質の粘土層があってその上に黒褐色の粘土質土が堆積し、その間にローム漸移と言って色調が黄褐色と黒褐色との中間的な色合いの層がある。黒褐色土はほとんどと言ってよいくらいが火山灰質土壌で、腐植を帯びると黒色化する。火山灰の黒色変化については腐植によらないものもあるが、その層に黄褐色あるいは赤褐色の火山灰そのものが層になって部分的にレンズ状堆積をする場合もあり、沖積世に何回かの火山灰が覆っていることもある。西桔梗では上層に駒ケ岳火山灰が覆っていることが少なくない。
 この二五層の堆積土は、サイベ沢の左岸にしか見られず、この部分は西桔梗台地が古函館湾の一部を形成していたころの汀線(ていせん)であり、入江となっていたため、漁労に適していたであろう。厚さ五メートルに及ぶ堆積土層の中に遺物を全く含まなかった層もある。これは火山灰層としては第六層と第一七層の二層、粘土層では第一〇層、第一二層、第一九層、第二三層、第二四層である。これらの堆積層には時間差があり、それぞれの間にある木炭などを含む層から土器や石器が出土している。土器は最もその時代の影響を受けるもので、不思議に土器の製作技術、施文技法が地域によって共通しているが、特質は時代差や地域差を反映している。それは先史時代にあたかも同じ民族が移動して土器を残して行ったかのように一定の法則性がある。考古学者が土器の破片を見て、およその時期や年代を判断できるのも、この法則性に基づくからである。
 サイベ沢では二五の堆積土層に各時期の特色を反映した土器文化が確認され、発掘報告書では、これらを各個に第何文化層と呼んでいるが、層位によって、円筒土器文化が二二に細分された。

サイベ沢遺跡の遺物包含地層図