西桔梗B2遺跡の墓壙(昭和47年調査)
B2遺跡では遺物包含層が薄いためか、広く土器や石器が散在していたのに、住居跡などの遺構はほとんど発見できなかった。時代は今をさかのぼることおよそ一、八〇〇年前後で、B2遺跡だけでなく、道南全般に言えることであるが、遺跡を覆っている堆積土は二〇センチメートル程度と薄く、畑の耕作土と混同して撹乱(かくらん)層となっている。この遺跡から墓壙が一例発見され、そこから出土した管玉は和洋女子大学の寺村光晴教授によって、弥生時代中期の本州から移入されたものと判定された。この墓壙の平面形は巴形をしており、長軸が二・三三メートル、短軸二メートルで、耕作土など撹乱層を除いたところ、墓壙の輪郭が現われ、深さは三〇センチメートルであった。墓には大きな自然石が三個乗せてあり、壷(つぼ)が墓壙の北側に埋設され、南側の墓壙内に小形土器が二個埋葬してあった。墓の中には管玉七点、石鏃(ぞく)四点と破損した土器片と割れた砥石(といし)が埋葬してあった。管玉は墓の底近くに紐(ひも)で連ねた状態ではなく、ばらばらになっていた。土器と砥石の破片は、発掘終了後、墓壙周辺に散在していたものと照合して見ると、ほぼ完全な形に復原できた。土器は七個体が復原され、うちボール形、カップ形土器などに朱を塗ってあるものが五点、他の二点は副葬品のためか小さく、高さ四センチメートルの杯形土器もあった。径が一六・五センチメートル、高さ一二センチメートルのカップ形土器は、完全に復原するのに七〇片もの破片が集められた。砥石は一七片で墓壙周辺の細かな破片も接合できた。
この遺物の出土状態と復原作業によって、次のことがわかった。すなわち、墓壙に埋設するものは、完全なものと、人為的に破壊してから埋設するものがあり、土器の破片や砥石は墓壙外で壊してから入れたと推測され、管玉や石鏃も注意して観察すると、一端が破損していた。キーリングの風習があったのであろう。“もの”の霊が常に死者と共にあるようにとの願いを込めて、日常使用したものや葬儀に使用したものを壊して入れる風習である。この風習は弥生時代においても見られる。