住居跡

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 住居跡は、これら大小の貝塚が分布していた中央部の、がけ近くで一一基発見され、西側ではその後南四〇〇メートルの地点でも住居跡が確認された。一、二号住居跡は遺跡の西側にあって、その北に三、四号住居跡があり、南側に一一号、一〇号、九号と続いており、中には住居が一度廃棄された跡に次の住居が建て直されているものもある。一、二号住居跡も二号住居の跡に一号住居が建てられたものであるが、一号住居は円形の竪穴住居で、入口があり、太い主柱と細い支柱から成る三本組の柱が内壁に立て巡らされて立て方に特徴があり、残存部は一号住居に四組と、不鮮明ながら二号住居に二組、合計六組の柱が竪穴を囲んでいた。このように上屋根を支えるために六本の太い柱と、それを支える一二本の支柱の発見例は、北海道でこの住居跡が最初であった。複合住居である二号住居跡の炉は、中央よりやや北側にあり、物置台様のべッドも作られていた。壁の高さは三〇ないし五〇センチメートルで、草屋根のすそに粘土を盛って、外から雨水などが入らぬよう防いでいる。六号貝塚がこの住居の出入口から四メートル程離れた南西部にあって、そのかたわらに野外の炉を設けている。この遺跡で発見された方形の石組炉は、すべて方位と関係があるようであり、偶然の一致とは思えない。縄文人にとって″火″は聖なるもの、恐ろしいものでもあったが、太陽と共になくてはならないものである。太陽の出没の方向に炉の向きを合わせたと見られるようである。アイヌ民族の住居には日が昇る東側の窓を聖なる窓(ロルンペアラ)といって、家の東側に供物、宝物を置く場所を定めている。これと同様に、一号住居には東側に前記のべッドが作られていた。また、アイヌ人の炉の場合は方形で、炉の片隅にイナウが祭られている。煉瓦台遺跡の住居の炉も方形の石組炉であるが、焼土や灰の堆積は決して厚くない。これは多量に火を燃やしたのではなく、火種を絶やさない程度にして暖炉としたもので、屋外の炉は儀式あるいは食事の際に関係するものであった。

煉瓦台貝塚の1・2号住居跡(昭和36年調査)

 当時の食生活はほとんどが生食で、貝塚から多量に発見される貝類も、シカなどの動物の骨も焼いたものは全くと言ってよい程見られない。主食は動物の肉、貝や魚で、シカの骨などは髄まで食べている。大腿骨のように太いものは割り砕いている。ハマグリ、アサリなどの二枚貝は、殼を重ねたように堆積しているが、いずれも殼頂の靭帯(じんたい)が外されて一枚ずつになっている。土器のうちには炭化物が厚く付着しているものがあり、煮沸用の容器であったと思われるものがある。貝を生きたまま湯の中に浸して口をあけ、肉を食べる方法も知っていたであろう。野外炉の周辺に見られる炭化した骨は全体の数パーセントに過ぎず、種別的には貝塚のものと違いはない。焼いて食べたのは、特定の祭りなどの、限られた日だけであったようである。大量に取れた動物や魚は乾燥して保存あるいは非常食にあてられ、それらを焼いて食べることもあったと思われる。
 遺跡の東側に堆積した大規模な貝塚は、長年月住んだ煉瓦台の遺跡人が、貝殼や動物の骨などの置場としたもので、貝塚はごみ捨場であると書いてある本などもあるが、これは誤った考え方であろう。アイヌ人の住居は、東側に“ヌササン”と言って動物の頭蓋骨を木の枝にかざし、朽ちた臼(うす)など使用に堪えなくなったものを置いて祭る場所があるのと同じように、聖なる場所であったと考えられている。これは、サイベ沢遺跡のように、貝塚に人骨を埋葬してあったことからもわかる。煉瓦台貝塚では人骨の埋葬は確認できなかったが、ほぼ時期を同じくする室蘭の貝塚では、何体もの人骨が埋葬されていたし、この煉瓦台貝塚や、住宅の下になった湯川貝塚にも、かなりの埋葬人骨があるものと考えられる。