続縄文時代遺跡

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 続縄文時代は、縄文時代に続いて、本州における弥生時代に相当する時代を言い、前、中、後の三期に区分されているが、前期は恵山式、中期は江別式、後期は北大式に代表される。西桔梗B2遺跡では前期の墓壙が発見され、キーリングの風習が見られ、墓からは弥生時代中期の硬玉製管玉が出土したことはさきに述べたが、この時期は石器にも変化が現われ、靴(くつ)形石器という石小刀や、獣皮の脂肪をかき取る道具、片刃磨製石斧、環状石斧、魚形石器など、特色ある石器が姿を現わす。これらの石器のうち、靴形石器は中期の江別式前半までは残るが、後半になると石器が減少し、後期の北大式になると円形掻(そう)器と言う小形で円盤形の石器しか存在しなくなる。西桔梗E2遺跡では中期の墓が一基発掘されたが、そのほかの地域では明らかでなく、西桔梗N-6遺跡では前期の恵山式に対比される遺跡が確認されている。
 続縄文時代中期の江別式の時期は、後半になると青森、秋田、岩手、山形の各県および宮城県北部にまで分布圈を拡大するが、この時代は東北地方は古墳時代中期の時期であり、同時代に北海道の石器が減少する傾向を見せるが、これは古墳文化と接触して鉄器を移入したことによると考えられる。その後の統縄文時代後期にも古墳文化の影響を受けた形跡はあるが、直接にその影響を受けたのは、後期古墳文化が東北地方北部に広がって、土着民族も同化して行く七世紀ごろである。七世紀になると、『斉明記』などに蝦夷の記録があり、これらの文献と遺物は、直接関係があるか否かは、これからの研究をまたねばならないが、北海道南部では東北地方の後期古墳時代に伴出する土師器が至る所で発見されている。発掘調査は進んでいないが、湯川遺跡の例のように、競馬場の東南部で土師器を伴出する住居跡三基が発見されている。この時期は七世紀ころに当る。湯川の土師器と時期を同じくするものが、空知郡栗沢町由良(ゆら)でも出土しており、更にこの時期の住居構造をまねたものが全道的に現われ、これらには土師器に似た擦文土器が伴う。この擦文土器と住居構造は、時期的に細分され、八世紀から十二世紀まで続いた。北海道南部で亀田に近い擦文土器の出土地は、七重浜に近い上磯町字東浜町の遺跡で、ここからは須恵(すえ)器と土師器が共伴する。
 亀田では、今のところ続縄文時代後期の北大式や、後期古墳文化の影響を受けた擦文土器の遺跡は発見されていない。六世紀から十三世紀にかけての期間は不明の点が多い。
 後期古墳文化の進入の時期が過ぎて室町時代になり、豪族が東北地方から移住するようになると、亀田にも和人が住むようになる。