日本書紀の斉明紀によると、斉明天皇四(六五八)年、阿倍臣が船師一八〇艘を率いて蝦夷を伐つとあり、有間浜に渡嶋蝦夷などを招いてもてなしたとある。
“渡嶋蝦夷”は、持統十(六九六)年、養老二(七一八)年の条にも現われてくるが、津田左右吉のように渡嶋蝦夷の“渡嶋”を津軽か秋田であろうとする論考もある。近年の考古学の調査では東北地方の後期古墳の影響を受けた北海道式古墳などから和銅開珎やわらび手刀が出土するようになった。古墳時代につくられた東北地方の土師器と同じものが道南地方や石狩低地帯でも発見され、住居の構造も似ていることが明らかになってきている。このことは必ずしも日本書紀の記事と一致しないまでも、本州と深いかかわり合いをもっていたことを示すものである。
東北地方における中央政権の進出は、神亀元(七二四)年の陸奥国の多賀城築城、延暦二十一(八〇二)年の坂上田村麻呂による胆沢城の築城など、八世紀から九世紀に顕著となってくる。辺境の地であった北海道も平安時代になると東北地方の鉄製品が伝わり、生活様式も変化するが、亀田周辺の上磯町東浜町や、銭亀沢地域の汐泊川流域などに生活の跡が見られるようになる。
文治五(一一八九)年源頼朝に滅ぼされた藤原氏一族で蝦夷地に逃れて来た者がいたといわれるが、『吾妻鏡』の建保四(一二一六)年の条、文暦二(一二三五)年の条には強盗、海賊を夷島に送りつかわすとあり、和人渡来と移住が記録の上でもはっきりとしてくる。