シコツと亀田

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 文化四(一八〇七)年『松前紀行』(別名蝦夷紀行・陸奥紀行)には、「亀田川を越え万年橋を渡るこのあたりは志こつといひしが、ゆゆしき名なりとて近頃改めしとぞ」と記されており、亀田川(現在の教育大学裏からガス会社付近を通り、万代町海岸線に流れ出る。)にかかっていた万年橋を七重浜方面に渡った所を「志こつ」といっていた。
 永田方正は『北海道蝦夷語地名解』の中でこれを引用したものと思われるが、「シコツ、大谷、亀田辺ノ元名」と記している。
 また明治末年ころから特に根拠があるわけではないがこの「志こつ」の呼び名が亀田に変わった理由を説明するものとして、シコツの音が「死骨」と同じなのをきらい、縁起のよい亀と、水田があったのでこれに田の字を付け、亀田としたといわれるようになった。
 亀田の地名が最初に見られる文献は、寛文十(一六七〇)年の『津軽一統志』の記事で、前記したように「一 亀田 川有 澗あり 古城有 一重塀(堀)あり 家二百軒余」と記され、このほかにも寛文年間(一六六一―七二)の地図にも亀田とはっきり漢字で書かれている。『松前紀行』にあるように、「シコツ」という地名は確かに亀田川下流域に付けられた地名であるが、亀田地域一般を示す地名ではないようである。『松前紀行』はその文中で亀田の地名を使用しているが、それは単に亀田川下流域の一部を示すものではなく、もっと広い範囲を表わす地名として使用している。また「シコツ」の地名は『松前紀行』以外にはその名すら発見されず、地名が用いられた確実な年代は、「亀田」は寛文十(一六七〇)年、「シコツ」は文化四(一八〇七)年と一三七年もの違いが見られる。
 「シコツ」が死骨に通ずる発音なので縁起のよい亀田に変えたという説は、維新前の文献には見られず、後の世の人が『松前紀行』の「シコツ」と「亀田」の両者のつながりをうまく付けるために考え出したもののように思われる。