村々の状況

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天明・文化の戸口比較表

 前松前氏時代、天明六年の統計と、前幕府時代文化八年の統計を比較すると、亀田村の人口、戸数はほとんど変化がない。
 上山村では、人口、戸数とも増加が見られるが、享保十三(一七二八)年ころから村と称するようになった赤川村や、文化元(一八〇四)年ころに栖原半次郎によって開かれた栖原郷(上山村枝郷)の数も含まれていると考えられ、数字の上では増加しているが、実質的には上山村(本村)の人口、戸数は同じくらいか、あるいは減少していたものと思われる。
 また鍛冶村では、天明六年に比較し、文化八年では戸数、人口ともに減少した。
 このように人口や戸数が上山村ではやや増加したが、亀田村や鍛冶村では同じか減少の傾向が見られる。これはどのような理由に基づくものであろうか。
 幕府が蝦夷地を直接経営することになり、箱館奉行は農業を奨励し、文化元年諸国より蝦夷入植希望の農民を募集し、住居や農具を与え、文化二年から開墾に着手したが、これらの地の中心は大野、七飯、上磯方面であった。
 亀田地域では「何人にても開墾を企てる者に土地を割賦する。」という箱館奉行の奨励策に従い、栖原半次郎が文化元年ころに上山村枝郷栖原(赤川通)の開拓に当ったことぐらいであった。この栖原郷と先に開拓されていた赤川村が、上山村の数字の中に加えられて、戸口が増加したものであろう。
 亀田村や鍛冶村で戸口が減少の傾向にあったのは、天明の飢饉(ききん)の影響や、官の援助が各村に行き渡らず、また農民が零細であったためであろうか。