元治元(一八六四)年相馬藩家老熊川兵庫は蝦夷地開墾を計画し、箱館在石川郷に四五戸、軍川に五三戸を津軽、秋田、南部などから募移し、両方合わせて二万六〇〇両を投じて開発に当った。
この結果石川郷では、最初の二、三年間は水田も作られるようになり(以後は凶作のため水田耕作は中止)、畑では主として粟、稗、大豆、大根、かぶらなどが収穫されるようになった。
このように松川弁之助や相馬藩により、石川郷の開発が積極的に行われ、ある程度の成功を見たが、新開発地である石川郷はついに一村として独立することができず、官からの拝借米でようやく生計を維持するような状況であった。
『慶応四年箱館地方及蝦夷地引渡演説書』(函館市史史料編第一巻所収)は、当時の様子を次のように記している。
一 石川郷の儀、開墾筋の儀に付ては品々世話有レ之貸渡金等有レ之候処、当時にては仕法変革貸渡金返納方村引請に相成、然る処新村の儀未だ年貢も不二相納一候程の村柄に付、返納方差支及二難渋一候に付、取立方追々延置申候。委細は貸渡金一村限帳にて御承知可レ被レ成候。