馬がはじめて蝦夷地に移入された年代はつまびらかではないが、『東北太平記』別名『北部御陣日記』に次のように記されている。「一、蔵人十ヶ年前より北洲カンメテ(今云亀田)切開と号、召抱候諸国浪人及去々年より相集る兵三千五百六十弐人、都合六千二人、馬数九百五十疋相揃」、また別項に「却説、蛎崎蔵人信純は南方の両将を語らい殊に十ヶ年以前より金銀を夥しく与へて召抱、北洲亀田の城に密に隠せし諸国の浪人及猶八方を招き三千五百六十二人」とあり、きわめて話が物語的であるが、津軽の蛎崎にいた蛎崎蔵人信純は、宝徳年間(一四四九―五一)以来北洲カンメテ(今云亀田と著者福士長俊が注を付けている。現在の亀田地域を示すものであろう)を開発し、城を築き、ひそかに浪人三千五百六十二人と、馬九百五十頭をそろえていたという内容である。このころ馬がはじめて渡来したものであろうか。非常に興味深い記事であるが、内容的に大げさであり、物語風である。
その後『新羅之記録』慶長二十(一六一五)年三月の記録に、松前慶広が津軽信平から良馬を贈られ、更に同年五月には秋田において佐竹義宜から大蘆(あし)毛の駿馬を贈られたことが記されている。
また、『蝦夷に関する耶蘇会士の報告』によれば、「尚蝦夷には馬が非常に多く、この馬は欧羅巴(ヨーロッパ)のそれと非常に似ている。馬の外熊もいるが、牛と羊はいない。」と記し、同書の別項元和四(一六一八)年の項に、「八月福山より内陸一日路にある鉱山部落に赴いた際、福山の切支丹が人馬の準備をしてくれたに拘らず、殆んどすべて徒歩で歩まねばならなかった。」と記されている。これらのことによって、江戸時代のはじめには、蝦夷地に馬が移入されており、和人たちに使用されていたことがわかる。