『明治十九年 各村創立聞取書 亀田外七ヶ村』によれば、
渡島国亀田郡赤川村起源沿革
一 馬ノ蕃殖起原及ヒ即今蕃殖景況ノ進歩改養(善)ノ方法
享保十三年同郡神山村農喜右衛門外二名ノ者并南部地ノ者津軽地ノ者拾四名都合十七名カラ合十七戸家屋ヲ創立永住ナシ畑開墾ノ節北海道産ノ馬十七頭ヲタテ用ユ。
石川村
一 馬ノ蕃殖及ヒ即今蕃殖景況改養(善)ノ方法
安政四年岩城国相馬播摩守殿当村開墾ノ節、戸数拾六戸エ拾六頭預ケニ相成リ、不レ残北海道産ノ馬、今ニ至リ該種ヨリ出産モアリ、他ヨリ買入モアリ、年々増減有レ之
桔梗村
一 馬ノ蕃殖起原及ヒ即今蕃殖景況ノ進歩改養(善)ノ方法
安政六年京都東本願寺当村開墾ノ砌リ戸数四拾戸ヲ(ママ)四拾頭ヲ預ケニ相成リ、不レ残北海道産ノ馬、今至リ其種ヨリ出産モアリ、他ヨリ買入モアリ。
赤川村
一 正徳四甲午年中当郡神山村居住喜左衛門、覚左衛門金ノ丞ノ三名、赤川沢エ 当時亀田郡赤川村ヲ云フ 木屋懸ケイタシ薪并笋(ジュン)菌狩取当郡函館市街エ村出シ売捌キ生話(ママ)ト為シ居候
とあり、一戸に一頭を飼育することが普通であって、赤川村の場合は赤川沢の山から切り出した薪を、たけのこ、きのこと一緒に馬につけ、箱館の町へ売りに出ており、主として駄馬として使用していた。
なお文中に「北海道産ノ馬」とあるところから、土産馬といわれる種類の馬であろうと考えられる。
また、『匏菴遺稿』(函館市史史料編第二巻所収)には、
年々端午なりしやと覚へたれど、今聢と記せざるが、亀田村八幡宮祭礼に跑馬(ホウバ競馬ニ同ジ)会あり。近在村々より各駿馬を引出して誇りあへるが、頗る連勝を得て喝采を得る者あり。馬主極めて之を栄とし、随分高価を捐て良馬を購ふ者あり、然れ共其騎る者は大体自ら騎りて人を傭はず。蓋し此地の少壮輩、士民の外僧侶にても医師にても何れも騎馬に巧なれば、人に託して勝を制するを屑とせざるなり。馬種は文化の度官の移す処なれば、定めて南部、仙台、三春の産なる可けれ共、今日に至りては躯幹甚だ大なる者稀なるを覚ふ。豈風土に遵ふもの耶。
と記されており、亀田八幡宮の祭礼に競馬会があり、これに出場する馬の中には「随分高価を捐て良馬を購ふ者あり。」「定めて南部、仙台、三春等の産なる……」と記されていることから、本州方面からの移入馬又はその系統の馬がいたものであろう。しかしまた「甚だ大なる者稀なるを覚ふ。」とあることから本州産の大形馬はまれであったが、競馬が盛大に行われていたようである。