山から木材を切り出すことが最初のころの林業であり、亀田地域においていつころからこれが始められたものかつまびらかではないが、『明治十九年 各村創立聞取書』には既述のとおり次のように記されている。
聞取書
一 正徳四甲午年中当郡神山村居住喜左衛門 覚左衛門、金ノ丞ノ三名、赤川沢エ 当時亀田郡赤川村ヲ云フ 木屋懸ケイタシ、薪并笋、菌等狩取、当郡函館市街エ村出シ売捌キ生話(ママ)ト為シ居
正徳四(一七一四)年には神山の農民によって現在の赤川村から薪が切り出され、たけのこやきのこと一緒に馬の背で箱館へ村出しされ、生活費を得ていたことが知られる。
このように亀田地域においては、雑木などについては、村人が自由に伐採し、薪や炭として、また小屋掛けなどの用材については特に制限はされていなかったようである。
『松前蝦夷記』によれば、
東在郷茂辺地村山檜 角材木榑木 等の類伐出し申候。先年ハ多く材木出申候の故、厚佐部の通他国より山師来請伐仕候へ共、近年山伐からし材木纔斗(ワズカバカリ)出申候故只今ハ志摩守用木斗伐セ申候よし
とあり、当時亀田奉行所の支配地内にあった茂辺地の檜木山(現在の上磯町字茂辺地町)で檜の角材や榑木を、他国の山師が多数渡来して伐採していることがわかる。伐採した木材の移出量や移出先については現在つまびらかではないが、かなりの量にのぼったものであろう。この時の乱伐のため、その後茂辺地の山はすっかり荒廃してしまい、松前藩入用の材木より伐採されないようになってしまった。
なお、このとき伐採された檜木の中には、当時発展中であった箱館の町家や橋などに使用されたりしたものもあったものと推定される。
このように茂辺地山であまり伐採し過ぎたため、松前藩は茂辺地山の保護に乗り出し、次のような法令を出している。
定
一 茂辺地村山中におゐて、檜大小によらす伐申間鋪候。 附、桧皮はぎ申間鋪事。
一 松雑木共用木ニなり候分、無断伐申間鋪事。
一 檜山近辺野火付申間鋪事。
右の旨於二相背一者、急度可二申付一者也。
卯三月二日 (松前福山諸掟)
右の通り東在茂辺地并留川村に相渡ス
この法令から知られるように、茂辺地、留川村(上磯町字富川町)では檜木は大小によらず伐採も皮はぎも禁止されており、松や雑木でも用材として使用できるものは伐採を禁じ、檜山の付近で火入れをすることなどは、厳重に止められていた。