諸役の収納

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 享保二(一七一七)年の『松前蝦夷記』によれば、
 
  一 薪 雑木 長二尺七寸伐 幅七尺 高サ五尺
   西東在郷家大小不限一軒より収納申よし
    但シ、木かぶ或ハ悪キ木ハ右の一倍又ハ其節の了簡ニ仕ルよし
  一 西東在郷より
   材木 五寸角長一丈雑木無構一本、丸太五本同断サキ(リ)ト云
   右家大小不限一軒より角并丸太トモに六本ツヽ収納、依之常に不時の入用不申付候よし
  一 杣役 杣一人年中銀弐匁 壱匁八十四文
   右他国より来候杣、地の杣役同前也
 
 と記されており、(一)西東の村々一軒から長さ八〇センチメートルに切った薪を幅約ニメートル、高さ一・五メートルに積んだ量だけ、ただし木株や質の悪いものはその倍量を納入すること、(二)緊急用の備えとして約一五センチメートル角で長さ三メートルの材木一本と、丸太五本を、家の大小に関係なく、各戸から納入すること、(三)杣役すなわち伐採する者にかかる税は一年間銀二匁を納入することが定められた。
 このころは漁民、農民を問わず、西東の村々に住んでいた全戸からこれだけの木材や薪を徴収しており、たいへんな量となっていたものと推定されるが、ここでも切るだけで、植える方の法令は見られない。
 既述の亀田奉行の「覚」、享保年間(一七一六―三五)に、次のような条文が見られる。
 
  一 川流薪の義内拾五分一役にて百姓并給所入込川流を改候て見分の上拾五分一の役可申付候。
    但、半川流いたし置、馬にて通候者有之候はば、是等は弐拾分一の役可申付候事。
 
 この法令により、百姓で川を利用し、薪流しをした場合、その流した量の一五分の一を、また川流しの途中から馬を利用した場合はその二〇分の一を納入しなければならなかった。この当時亀田番所は知内以東、小安付近までの地域を治めていたから、これらの地域では川を利用して薪流しをしていたことがわかる。