山本登長戦争記

169 ~ 170 / 1205ページ
 山本登長(峠下在住の千人隊士、官軍の側)の『峠下より戦争の記』(写本市立函館図書館蔵)は退却の様子を次のように記している。
 
  二十四日朝右の両人早馬にて裁判所に来りいちいち言上しければ、知府事殿は申におよばず、詰合の役人中にも大敗軍と聞、後詰の兵隊催促しきりなりといえ共差向べき兵隊もなく、唯々心配のみにありけるとぞ。扨(サテ)敗軍して大川村屯所へと各引取、組々人数しらべ候所、福山方の差図役小松清次郎、成田惣兵衛行方しれず、千人隊にて秋山幸太郎、粟沢勝之助、其外斎藤順三郎、宮崎重三郎、今泉善太郎都合四人(ママ)手疵負、裁判所より出張せし山下清吉郎、だん薬廻し嶋田勘吉外に人足四人討れける。夕刻大川村を引払ひ、亀田をさして引上ける。其夜は村々の百姓に申付、所々山々谷々へかがり火をたかせ、番兵八方に詰居る体にもてなし、実は残らず引退く。有川方にても次第次第に逃去りける。両口共に大敗走、哀れ筆紙につくし難し、夜戌の刻(午後八―九時)濁川村に有りし松前候の陣家竃二十四軒と云自焼して逃去。藤山口、七重口共亥の刻(午後十―十一時)頃裁判所へ集会す。且また湯の川口、河汲越も引退き、五稜郭湯呑所へ集、野口太一郎、吉野鉄太郎両人取次を以戦争の始末知府事殿へ御直々言上仕らんと申入ければ、尤の事なれ共稽古場にて暫く休息致すべしと有ければ一同兵粮など遣ひ、又々太一郎御殿に伺ひければ、知府事殿には先刻御立退、附随ふ人々には桂主膳、緒(ママ)笠修理、竹内三太夫、木下官一郎、十時三郎、関定吉、三の御門より表御門通り、夜中船に乗組たりと聞く。一同あきれはて其頃裏御門に固め居たりし備後福山の隊長斎藤半次郎も知府事殿御立退と聞て大に驚き、落洩(ママ)したる錦の御旗を持参して兵隊引具し御同船に乗組ける。
 
 十月二十五日清水谷知府事は秋田藩の軍艦陽春に乗り青森に撤退し、各藩兵もそれぞれ船便をさがしてこれに従った。
 十月二十二日よりわずか三日間でこの時の戦争は終ったが、榎本軍側では諏訪倍五郎、山本泰次郎、大岡幸次郎という幕末の大物を失い、箱館府側でも在住隊隊長秋山幸太郎を始めとして一九名を失った。
 このように箱館府側が意外に簡単に敗れた理由は、兵力が十分でなく、しかも遠来の福山藩、大野藩の兵が疲れをいやす間もなかったためであろう。