明治初期における箱館裁判所、箱館府の行政は前にも記したごとく、めまぐるしく変革されたのであるが、この間亀田諸村の行政はどのような状況であったのか。
箱館裁判所、箱館府ともに村方三役(名主、年寄、百姓代)の任免、特権、業務内容などについては従前のとおりとしており、一つには混乱を避けるため、一つには改革の手が届かなかったというのが実情であったようである。『慶応三年触書留』には次のような触書がある。
触 書
今日より改て市在役人可二申付一の処、旧来の通にて精々其役々相勤可二申付一事。
当 府
巳(明治二年)五月十九日 裁 判 所
前書の通被二仰出一候間此段相触候。以上
箱 館 府
町会所
下湯川より
長万部村迄
右名主中
江戸時代末期の村役人は松前藩の政治方針に従い、かつ村の自治組織のかなめとしての役割をなしていたが、維新後は新政府の下部機関的色彩が強く、村の自治面でのその権限は著しく弱められていた。またこの時期は各種の改革が短期間に行われ、かつ、箱館戦争、凶作、物価上昇などという社会的背景の中で官制の行政指導と村民の要望の両者の間にあって村役人が村をとりまとめて行くことは容易なことではなかった。