工事に当っては人夫五〇名、指揮役一名、世話役二名を一隊とし、おのおのその受持区域を請け負わせ、その上に明治五年四月からは函館鶴岡町から亀田村の間に取締役四人、桔梗村に伍長一人、取締役四人、函館職工場に伍長一人、取締役二人を置き、諸事を監督させた。工事の順序としては測量、伐木、開路、橋梁、修繕の順で行い、工事に必要な道具を製作する作事小屋の建築には五稜郭旧庁舎の古材などを使用した。亀田村には工事人夫の宿泊設備ができた。その後工事の進展に伴い必要に応じて七重、森間の各所に官吏の詰所、休泊所、人夫小屋が設けられた。そのほかにも峠下には五稜郭の建家を移し「ホテル」が設けられ、工事関係者の米を確保するため大野千代田郷に水車による精米場が設置されるなど、工事ばかりでなく、その付属設備も大規模なものであった。
このようにして亀田より森方面に工事を進めたが、この間函館付近の工事に用いる土砂は元津軽陣屋(現在の千代台町付近)、亀田万年橋付近から採取し、主に亀田村、鍛冶村、神山村などの馬数百頭を使役して運搬された。
かくして明治五年七月函館・森間の道路工事は完成し、里程標を建て、この地方の工事関係者をトカリモイ(室蘭)に移し、八月亀田橋の建設が完成し、通行可能となった。
新道出来形図(亀田橋・万年橋付近) 北大図書館蔵